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宮木諏訪神社 辰野町宮木 22.4.29

 辰野町には、御柱祭を盛大に行う神社が三社あります。今回は、準備してあった写真を一新し、平成22年の新しい御柱が建つ宮木諏訪神社を紹介します。

宮木諏訪神社「祝・御柱祭」

 土日に御柱祭が行われたので、町内に入ると沿道に張られた飾りを外している姿が見られました。ところが、それも順番なのか、宮木諏訪神社の周辺はそのままで、境内入口には「祝・御柱祭」と書かれた大きな「飾り門柱」が残っていました。石段にも御柱を曳き上げるためのコンパネがまだ張られたままです。

宮木諏訪神社の御柱

 もうすぐ3時という時間では寒々しい写真となりましたが、残った花弁から、四日前の御柱祭は桜が満開の中で行われたことが想像できました。黒木の御柱を見上げた目を“根本”に転じると、御柱を吊り上げた重機のキャタピラー跡が残っていました。「祭りの後」を“評論”しても始まりませんから拝殿へ向かいます。

宮木諏訪神社の社殿 右奥の小さな社殿が本殿です。瑞垣内はまったくの日陰ですが、その本殿だけに山吹が色を添えていました。写真には見えませんが、左に拝殿があります。その間にある中央の社殿ですが、よく見ると幾つかの建物が複合しています。資料には、(本殿の)外殿・祝詞殿・勅使殿・神饌殿とありますが、「あれが」と指摘できません。
 写真の下部に注目してください。社殿の間を縫って川が流れています。宮木諏訪神社が鎮座する地形を考えると、川と言うより農業用水でしょう。この神社と用水の因果関係はわかりませんが、用水は地形の微妙な傾斜を利用するので「この場所しかない」と神様にお願いしたのでしょうか。この景観は山梨県北杜市の「大武川諏訪神社」とうり二つですが、同じ諏訪神社でも関連性はまったくないと思われます。

宮木諏訪神社 いつもの「手順」で本殿の神紋を探しました。正面は隠れていて見えませんが、大棟に諏訪大社下社と同じ「明神梶」が確認できました。しかし、拝殿の大棟は上社の「諏訪梶」です。以前より、「混在する神紋にも法則」があるのではないかと考えていますが、ここでもその糸口は見つからず終いでした。

刺国若比売命陵

宮木諏訪神社 境内の左奥に大きな石碑が見えます。「何だろう」と近づくと、「刺国若比売命陵」とありました。背後にある注連縄で囲われた小塚が命のお墓と知りましたが、「刺国若比売命」の読みと謂われがわかりません。
 碑の裏に「解説」が彫られていますが、読みにくいので、カメラでメモして自宅で“解析”することにしました。ところが、境内の奥を「周遊」していたらその案内板があり、「さすくにわかひめ」と読み、諏訪大社の祭神建御名方命の「おばあさん」とわかりました。

刺国若比売命御縁起
刺国若比売命は大国主命の御母であり健御名方命則ち諏訪大明神の御祖母であります。
御孫君健御名方命が出雲から、諏訪に向かわれる時同行なされ祖母神だけはこの月丘の森に住まわれ長寿の後ここでなくなられました。御陵はこの奥にあります。命は古事記にも記されているように禍を除き福を授ける神様として多くの人達の信仰を受けて来られました。
宮木諏訪神社

 以下は、自宅でじっくり読んだ「刺国若比売命陵」の碑文です。

刺國若姫命は大国主命の御生母にして建御名方命の祖母神なり 御名方命出雲より入信(※信濃国へ入ること)せられこの地に暫らく駐り給ふや命も同伴せられ御孫命の諏訪に入られし□□ここに宮居し長壽(寿)を以ってこの丘に天上りましきこれその御陵なり
古事記に記されし如く命は大国主命の災厄を救はれしにより古来禍を除き福を授くる神にして諸人の信仰を受け給へり

 何かスッキリしない記述なので、宮木区誌刊行委員会『宮木区誌』から〔刺国若比売命陵墓〕を紹介します。

 月丘の森の南端中程に飛地境内がある。この飛地境内の中央に陵墓があり、「ウバ塚」また「オバ塚」と呼ばれてきたのが建御名方命の祖母神・刺国若比売命の陵墓であると言い伝えられている。(中略)

神官矢島家の廟所

 境内左手の最奥、木や藪を透かした向こうに大きな石碑が見えました。近づくと、それを前にしたスペースを囲んで石祠と墓石があります。この時点でそれが何であるのかを確信したので、最短距離を取るのは避けました。国道側から目をやると民家の裏に小道があるのに気が付き、それをたどると、碑を正面にする廟所でした。
 墓石に「矢島」姓を確認すると、同じ町内の三輪神社にある社掌(今で言う宮司)矢嶋氏の廟所との関連性が思い浮かびました。しかし、複数の廟所を持つのは不自然です。同名異家か、今で言う「社掌(神官)矢島氏グループ」の一つ、宮木諏訪神社社掌の墓地ということでしょうか。

辰野町文化財「諏訪神社本殿と棟札」

宮木諏訪神社 郷土出版社『復刻版長野県町村誌』に、天正三年の「棟札記文」が載っていました。境内の案内板に「(前略)上伊那郡最古のもので、縦70cm・横35cm。墨書銘には、祭神は諏訪法性大明神とその祖母神であること、天正三年仲冬(11月)、武田勝頼が諸願成就のため諏訪の沙門春芳軒に命じて宝殿を再建させたこと、大工は諏訪上宮の親宗であることなどが記されている」とある棟札です。
 左は、その棟札の裏に書かれている文です。古文の文法はともかく、単語と熟語を追うだけでも意味は大体わかります。武田勝頼が源勝頼となっているのが“ミソ”でしょうか。「旃」は「セン・はた」と読むことはわかりましたが、「誌旃」はお手上げです。

宮木諏訪神社の御柱祭

 『辰野町誌』では「建御名方命の祖母神を祀るということで、諏訪大社では当社の御柱祭より三日遅らせて大祭を執行してきたという。現在も三日とは限らないが諏訪の御柱より先に行っている」とあります。諏訪の氏子の立場では「諏訪大社より6年遅れ」とも言い換えられますが、信濃国二之宮「小野・矢彦神社」が一年遅れなので、やはり「先駆けて」になるでしょうか。
 以下は、佐野重直編『南信伊那資料』から〔諏訪社〕です。

伊那富村宮木に在り 上古の祭神は刺国若比売命なり幾多の星霜を経て(中略) 古来の神事は七年毎に社殿の四方に御柱を建つる例祭なり 即ち一ノ御柱は宮木・第二は宮所・第三は今村上島渡戸・第四は新町等舊(旧)六ヶ村の分擔(担)にて一ノ御柱は五丈五尺以下一基毎に五尺づつ縮小するを例とす 但其費途既往(※過去)は詳(つまび)らかならされども弘治年間武田信玄より變(変)遷して高遠領主鳥居左京亮(すけ)に至る其間米五百俵人足四百人寄附せらる 以上の村落に於いて此神事に興るは即ち武田氏以来世々寄附人として賜りたるものなるか因襲(※風習)の久しき遂に古例となりたり (以下略)