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能登瀬諏訪神社「能登瀬のしかうち」 愛知県新城市 28.4.27

 サイト『弓祭り』に載る〔神事における御弓祭りの考察〕の一項「お祭り弓の起源」に、興味深い文を見つけました。愛知県鳳来町能登瀬(のとせ)にある諏訪神社の「鹿射ち神事」の内容が、記憶にある『諏方大明神画詞』の「草鹿」と重なったからです。

(前略) 槙木(まき)立てて上矢を射立ててたむけ(手向)とす、鹿草原にして草鹿(くさじし)(※草で作った鹿)を射て各々さと(里)に帰る、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』

また、武井正弘著『年内神事次第旧記』で確認すると、注記に

御射山での儀式を終え下山するときの神事で、諏訪では廃れたが天竜川中下流域の諏訪系の神を祭る集落に残されている。

とあり、その一つが能登瀬の諏訪神社であることがわかりました。

能登瀬諏訪神社
能登瀬諏訪神社の“草鹿(雄鹿)” 28.4.24

 上記は、13年前に書いた〔御射山社〕の一部です。それ以来、四月ともなれば毎年頭に浮かぶ愛知県の諏訪神社ですが、今年は御柱の年で「本宮の御柱休め」と日程が重なる現実はさておいて、この神事を見学する計画を立てました。

能登瀬はどこにある

 今まで記憶の中に戻し続けてきた理由は、そこまでの距離です。しかし、調べ始めると、現在は新城市(しんしろし)鳳来町となっていましたが、諏訪からは遠くても長野県(南端)からは意外に近いことがわかりました(長野県は南北に長いので、当然と言えば当然ですが…)。
 諏訪神社がある能登瀬は飯田線「湯谷駅」から近いので、たまには電車で行くのもわるくないと考えました。しかし、豊橋まで行く本数は少なく、前日に出発しないと神事に間に合いません。湯谷温泉に一泊する手もありますが、独り者で、しかも土曜日の宿泊では敬遠される可能性が大です。
 結局は時間に縛られない車となり、飯田山本IC−国道151号のルートを選びました。

愛知県の諏訪神社へ 28.4.24

 ナビの到着予想時間に若干の時間を加味して、朝5時に家を出ました。ところが、一般道の速度を40Kmに設定してあったためと休日の早朝という好条件に、8時過ぎには神社へ着いてしまいました。手前の駐車スペースで持参の食パンをかじると、仮眠ができる時間が残りました。しかし、山野はノフジが満開という輝く季節とあっては、ただ目を閉じただけで終わりました。

能登瀬諏訪神社 事前の調べで、神社の真向かいに日帰り温泉「ゆーゆーありいな」の駐車場があるのを知っていたので、寸借する予定でいました。ところが、例祭の警備に借り出された消防団員に誘導されて、堂々とその駐車場にすべり込むことができました。

能登瀬諏訪神社 神事にはまだ早いのですが、「草鹿」に会うために拝殿に向かいました。(氏子ではないのですが)入口で丸餅を一つ頂くと、ささやかな供物ですが嬉しさがこみ上げてきました。
 境内の奥に安置してあったのが、写真の雄雌二体の草鹿でした。
 拝殿の上部に社殿らしきものが見えます。脇にある小道を伝うと、本殿でした。

能登瀬諏訪神社 諏訪神社の社地は、急傾斜地にあります。拝殿−本殿ラインをあえてその斜面に求めたのか、両社殿を結ぶ石段は覗き込むのが恐ろしいほど急です。しかし、人間が昇降に使うものではないので問題はなさそうです。
 覆屋の脇から、体の中心が縮まるような感覚を覚えながら、その石段上にカメラを精一杯差し伸べて撮ったのがこの本殿です。

能登瀬諏訪神社
例大祭の神事

 この日は諏訪神社の例大祭です。上部から見下ろせた道に和服を着た女性が見えるので、「例祭とは言え大げさな」と思いました。
 しかし、拝殿内に着座した晴着姿の女性が何れも赤子を抱いているのを見て、産土様にお参りするために来たことに気が付きました。諏訪大社でいえば、御射山社の二才児の成長祈願でしょうか。しかし、鹿撃ち神事が目的の私は、ここまで散々待ち続けていたので、早く終わってくれと願うばかりでした。

しかうち神事

 社前にある、能登瀬学区コミュニティが設置した案内板です。

諏訪神社の鹿撃(しかうち)神事
 この諏訪神社は、大同元年(八〇一)に、名越や井代など近隣十ヵ村と共に信濃国諏訪大社から迎えた諏訪大明神を祭り、本社の神事にならって鹿を捕獲して神前に供え、豊作を祈願してきたが、社殿が新しく造営された延宝五年(一六七七)の正月の祭から田作り、種取り、鹿射の神事を今のような形で行うようになり、現在に至っている。
 豊年満作を祈願するこの神事は、諏訪大明神を祭る社では殆ど行われていたが、今では近隣で当社のみになり、大変貴重な神事であるので昭和五十八年三月に愛知県の無形民俗文化財に指定された。

 新城市の公式サイトでは「しかうち」です。集落によって名称が異なるというので、ここでは「しかうち神事」としました。

ビデオで「しかうち神事」

 ビデオで紹介するには最適の題材です。しかし、余所者(よそもの)とあっては、出しゃばることはできるだけ避けたいという気持ちがあります。また、「撮影場所の制約はないが、あくまで自己責任で」というお達しは、つまり“撃ち殺されても、当社は一切関知しない”ということなので、その可能性がある場所にビデオカメラをセットし、上部の石段から、矢を放つ度に前の人に楯になってもらうという位置で見学しました。何しろ、篠竹で作った神事用の矢は、矢じりこそありませんが、先端が斜めにそぎ落としてあるのを見ていました。


 神事はすべて撮りましたが、編集して、牝鹿(めじか)を射るシーンのみにしました。後半は、若者が飛び付いて餅を奪い合うというものですが、よく見ると、中の一人が境内下の斜面へ引っ張っているのがわかります。そのため、全員が草鹿とともに転がり落ちるというのが、この神事のクライマックスになります。能登瀬では、境内の立地を活かし、自然発生的(祭りを盛り上げるため)に、このような構成になったのでしょう。

 初めての見学なので、一番詳しいと思われるサイト『新城市』から、〔民俗芸能・歴史・文化〕の『能登瀬のしかうち』を、抜粋して転載しました。

 能登瀬のしかうち行事は、昭和58年3月7日に東栄町のしかうち行事とともに『設楽のしかうち行事』として愛知県の無形民俗文化財の指定を受けています。
 大同年間(806〜810年)に信州諏訪大社からの諏訪大明神を勧請して、この地に産土神として遷し祭ったのが能登瀬諏訪神社の始まりとされ、この頃も鹿などを射って、豊作を願う神事がされていたと考えられているが記録が定かではありません。しかし、江戸時代の前半頃に書かれた社伝によると、正月祭りの神事として、「田作り」「種とり」「鹿射ち」の神事を始めたと記されています。
 現在行われる能登瀬のしかうち行事は、4月下旬の日曜日の例大祭に拝殿前の広場で行われています。神事は、式典終了後に弓取り2人と矢取り2人の計4人が、榊で作った鍬の束と、いり大豆の包みとを持ち、『三明(さんめい)小開(こがい)の田畑のなりもの年の実、神田だよう、神田だよう、諏訪の神の田作ろう、田作ろう、田作ろう』と唱えながら、台の上で上下して、田作り、種取りの神事を行い、鹿射ちの神事に入ります。
 鹿射ちの鹿は、麦わらの胴体にシイの枝葉を挿し、足はシイの木、角はアオキで、雌雄2頭を実物大で作り、雌の腹に丸餅を入れ、成人に達した青年2人が弓矢で1頭当たり1人9ずつを射る。鹿射ちは、雄から始め、雌に18本目の矢を射終わると、雌の腹の中の多数の餅を人々が奪い合い、これを取った者の家は作物が豊作となり家内安全で子宝にも恵まれると言われています。

櫃と弓矢 実は、修祓の際に木箱(櫃)を祓ったので、その中身が何であるのか興味がありました。
 神事の終了間際に、その木箱を拝殿前に置いて中身を取り出すと、その上で揺すり始めました。慌てて近寄りましたが間に合わず、写真を撮ることはできませんでした。これが、「榊で作った鍬の束…台(木箱)の上で…」でした。
 参考として、準備中の木箱と弓矢の写真を紹介します。

長野県の「しかうち神事」

 天龍村大河内にある池大神社で「シカオイ行事」があります。今年は終わっており、来年の見学となりました。