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大宮神社 松本市大字大村 26.6.10

 松本市には「大宮神社」が複数鎮座しています。ここで取り上げているのは、大村にある大宮神社です。

 5月13日に、メールでその存在を知らされた松本の大宮神社を参拝してきました。

大宮神社へ

 急にもよおしてきた尿意を何とかしようと、大宮神社へ行く道筋にコンビニやスーパーの類がないかと左右に目を配りました。もう目的地というタイミングで、「アップルランド」を見つけました。
 この会社の前身は「松本電鉄」で、私が小学生の頃は、このスーパーマーケットの前を社名通りのチンチン電車(浅間線)が走っていました。今は消滅した町名(松本市清水)金山町で生まれた私は…、との郷愁は私事(わたしごと)になるので「ここまで」とし、限界となっていた“懸案”を早々に済ませました。
 丁度昼時とあって、ついでに購入した弁当を食べながら地図を眺めると、大宮神社へは、ここを駐車場にして徒歩で行くのが最適とわかります。ザックにカメラを入れ、今日のためにネットからプリントアウトした地図を参照しながら、神社へと向かいました。

大宮神社
二ノ鳥居から見た大宮神社

 鳥居を背後にして立つと、すぐそこに山が迫っています。これは祭神が見つめる方向と同じですから、松本盆地の平野部を背にしていることが不思議に思えます。また、山裾にある玄向寺と相対する方向でもありますが、…こちらの方は関係がないでしょう。

大宮神社
 鎌倉時代後期この地が諏訪大社造営の筑摩、安曇(あづみ)の筆頭郷であった時、この地の鎮守として祭られたものであろう。元禄一一年(一六九八)の神社仏閣改帳には諏訪大明神とある。
 その後平安時代この地で圧死した信濃守紀文幹(きのふみもと)の霊が合祀されたという。(国司塚)氏子の範囲は、大村のうち上村分だけである。
  平成九年一一月
本郷地区景観整備委員会 
紀文幹・国司塚については、後述とします。

 この案内板を読んで、赤いマジックインキで何ヶ所か“添削”したい気持ちに駆られました。限られた文字数で適確な文を書くのは容易なことではありませんが、これが、教委と景委の違いということでしょう。と、偉そうなことを書いてしまいましたが、この時点では、紀文幹がどのような人物であるのか知りませんでした。

大宮神社本殿 本殿の周囲には“目隠し”が廻らされています。屋根の厚みから、萱葺きをそのまま銅板で覆ったことがわかります。大棟の鬼板は無紋ですが、拝殿には「立穀(たちかじ)の葉」があるので確かに諏訪神社であることがわかります。本殿の外観が見えないこともあって、再び拝殿前に戻りました。
 小窓があるので中を覗くと、扁額が懸かっているのが見えます。実印に使われるような書体なので「御霊◯」としか読めません。何か不慮の死を遂げた紀文幹に関係がありそうですが、◯が判読できないので、“自宅で”としました。

大宮神社本殿 距離があって暗いのですが、本殿の正面を撮ることができました。向拝柱の貫には目貫(めぬき)の竜、木鼻には象の彫刻があるのが確認できます。
 帰路に、同じ諏訪神社である「横田神社」を参拝しましたが、こちらは「南向き」でした。

紀文幹

 紀貫之は知っていても、すでにどう読むのか忘れている「文幹」については私には未知の領域になります。その紀文幹の終焉が異国での不慮の死とあって何か気になるので少し調べてみました、と言っても簡便なネットの情報ですが…。
 『Wikipedia』では〔松本市の歴史〕に以下の文がありました。

944年−大規模な風害により国衙が倒壊。国司紀文幹が圧死する。

 ここに、「国司」が出てきました。今で言う県知事で、それも「圧死」とあっては当時でもビッグニュースであったに違いありません。ここで、一気に944年という昔に引き込まれてしまいました。
 私が時々“やり玉に挙げる”『Wikipedia』ですから、裏を取るために図書館へ向かいました。余りの古さ故に期待はしていなかったのですが、昭和27年発行という貴重本・信濃史料刊行会『信濃史料 第二巻』を見つけました。

 天慶七年甲辰 西紀九四四年
  九月大 庚午朔
二日、大暴風雨アリ、信濃國府ノ廳舎顚倒シテ、守從五位下紀朝臣文幹壓死ス

〔日本紀略〕後篇二 九月二日辛未、夜、大風暴雨、諸司官舎、京中蘆舎、顚倒不可勝計、信濃守從五位下紀朝臣文幹、爲舎被打壓卒去、

〔訓読〕九月二日辛未、夜、大風暴風あり。諸司の官舎、京中の蘆舎、転倒勝(あげ)て計うべからず。信濃守従五位下紀朝臣文幹、舎のために打圧せられて卒去す。

〔扶桑略記〕廿五 九月三日、天下大風、京洛官舎門楼多以顚倒、其日、信濃守紀文幹到着國府、出居國廳、々屋顚倒、壓殺守文幹、

〔訓読〕九月三日、天下大風ありて、京洛の官舎門楼多く以て転倒す。其の日、信濃守紀文幹、国府に到着し、出でて国庁に居る。庁屋転倒し、守文幹を圧し殺す。

 大意は〔松本市の歴史〕と同じですが、『扶桑略記』では「(わざわざ京都から)赴任した当日に死亡」と解釈できます。
 因みに、(ネットによる)台風の最古の記録は、989年9月(8月)の「永祚の風(えいそのかぜ)」だそうです。しかし、京都でも被害が出た「大暴風雨」が台風とすれば、それから44年もさかのぼらせることができそうです。

扁額「御霊徳」

御霊徳 左は拝殿にあった扁額です。読めなかった◯を、「一太郎」の手書き認識で“解いて”みたら、一番近いのが「悳」でした。音読みが「トク」で異体字が「徳」とあるので、「御霊徳」としました。
 そこで、(「御霊徳」は空振りでしたが)「霊徳」で検索すると、『kotobank』の〔デジタル大辞泉の解説〕では「霊妙な徳。非常に尊い徳」とありました。
 参拝時には、案内板に「紀文幹のが合祀」とあるので何となく彼に関連した額ではないかと考えていました。しかし、『扶桑略記』では「赴任してきた当日に死亡」という記述ですから、本人が予想もしなかった非業の死となります。これらのことから、この扁額は御霊神社に代表される御霊信仰で、「御霊徳」と讃えて祟らないように祀ったものと考えるのが合理的です。
 案内板では「その後」という表現ですが、別の場所に祀られていたのを、近世になってから大宮神社に合祀したという推移でしょうか。

国司塚

 『信府国司塚考底本 写』が『信州デジくら』にありました。ところが、…“筆字体”なので読めません。そのため、〔基本情報〕の紹介文のみを転載しました。

http://digikura.pref.nagano.lg.jp/kura/id/03OD0623101200-jp
 信濃国府松本に赴任した国司の墓の所在についての考察である。書いたのは78歳藤井好方という人物である。その概要は、松本市大村(南浅間)の南西の原を里人は「ククシ塚」と言うが、これは「国司塚」である。また、犬甘(犬飼)の美湯への途中の小高い所も「ククシ塚」がある。これは菅生王という国司の塚である。また村の東の方に「テウ」という所があるが、これは昔「廰(庁)」のあった跡であろう。近くには大宮大明神があり、その宮には冠をつけた貴人の木像が安置されている。これについてある人が「大村大明神に国司の像あり、大村の坤(こん※西南)に国司を葬し塚あり」と書いているので書き加えて傍証としよう、と。
松本市と合併する前の本郷村

 「貴人の木像」は神社によくある(阿吽の)神像として、ネット上では著者の藤井さんの詳細はわかりませんから、(私のような)郷土史好きが高じて考察文を書いたということでしょうか。
 地名「ククシ塚とテウ…云々」は、出雲の国庁跡が「こくてう」の地名がきっかけとなって発見された話に重なり、私は強く惹かれました。再び『信府国司塚考』を開いてみましたが、「何とか読んでやろう」という強い意志も、またもや門前払いとなってしまいました。

 長野県(信濃国)における国庁が置かれた国府は上田市と松本市の二説があります。そのため、前記「天慶七年…」に載る国府の所在地を松本市(大村)と確定することはできません。しかし、双方ともその遺構はまだ発見されていませんから、市井の人が“世紀の大発見”をする可能性はまだ残されています。

 実は、大宮神社に参拝したのは、境内にある「三峯社のお仮屋」が目的でした。これを“挿入”すると内容が散漫になるので、別の機会に紹介することにしました。