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川南諏訪神社 鹿児島県肝属郡南大隅町根占 21.12.1

鹿児島県肝属郡南大隅町 ネットで「鳥居」を検索すると、解説書には載っていない「これが?」という変わり鳥居を見ることができます。その中で、形はスタンダードですが、横に二基並んだ「並立鳥居」と固有名詞が付いた赤い鳥居を見つけました。さらに「諏訪神社」という“おまけ”も付いていますから、これはもう見に行くしかありません。ところが、九州も鹿児島で、さらにその南端にある諏訪神社でした。
 鎮座地の「肝属・根占」が難読ですが、ネットで調べると「きもつき・ねじめ」と読めました。その根占の後に「川南・若宮」と小字(こあざ)が続くので、ここでは「川南諏訪神社」としました。

諏訪神社の並立鳥居

「並立鳥居」根占諏訪神社 南大隅町は九州最南端の町なので、当然ながら最南端の岬があります。その「佐多岬」に通ずる国道の分岐から、すでに諏訪神社の赤い鳥居が望めました。
 さらに近づくと、当(まさ)に「並立鳥居」です。笠木と島木が黒と白・根巻きが…と書き始めましたが、写真を見れば一目瞭然…でした。

南大隅町根占諏訪神社の「並立鳥居」
 御神灯

 鳥居脇にある「鳥居建設記念碑」に平成6年建立とあります。新しい鳥居なので、それ以前はどんな景観だったのかが気になります。
 鳥居額は双方とも「諏訪神社」ですが、案内板がないので、この並立鳥居と諏訪神社の関係がわかりません。神社より「並立鳥居」として知られているようですが、これだけの存在感があればやむを得ないでしょう。鳥居前のどっしりした御神灯は「奉諏訪大明神・天保十年」でした。

南大隅町根占川南諏訪神社 イチョウが見事なので、拝殿の一部をカットして(まで)双方が収まるアングルにしました。拝殿前の黄菊も盛秋をよく表していますが、長野県の諏訪では一ヶ月前に見た秋でした。写真には写っていませんがソテツもあります。車載の外気温度計は、…「ここには冬はないのか」と思ってしまう16℃でした。

川南諏訪神社拝殿 正面の壁にある、私にはゴチャゴチャと見えた「モノ」は「ヨダレ掛け」でした。写真には一部しか写っていませんが、左右の壁一面にも“貼られて”います。この辺りでは、お宮参りで乳児の健やかな成長を祈願して奉納するのでしょう。
 原色に塗られた額「諏訪神社」の上部にある神紋は、「三つ巴」でした。長野県諏訪大社の分社は「梶」が一般的ですが、鹿屋市輝北町の諏訪両神社も三つ巴でしたから、大隅半島に影響力を持っていたパトロンの家紋でしょうか。
 本殿が三神の相殿になっています。諏訪神社ですから中央が「建御名方命」と即断できますが、他の二柱がわかりません。諏訪大社の祭神に倣って、「事代主命」と「八坂刀売命(やさかとめのみこと)」が祀られている可能性を考えました。しかし、昼時とあって、現在無人の授与所に声を掛けて確かめることは遠慮しました。

なぜ鹿児島に並立鳥居が…

 やはり、「なぜ並立鳥居なのか」が気になります。しかし、南大隅町や鹿児島県の公式サイトを始め、各“民間サイト”を覗いても「その内容」は“大同極小異”です。ある一つのサイトから順次コピペ(コピー&ペースト)して拡散していったのは間違いありませんから、「なぜ(謎)」も同じ内容になっています。
 以下に、『鹿児島県神社庁』のサイトから〔諏訪神社の由緒〕を転載しました。

 明応四年小根占郷の総社として、信州諏訪神社より分霊を勧請奉斎した。古くは上宮と下宮が境内に並び建っていた。旧称諏訪大明神。二つの鳥居が左右並行に並んでいるが、平成三年九月の台風で左側の鳥居の一部が欠け、残った片方も白蟻で倒壊寸前だったので、再建委員会を同五年結成し、募金を行い同六年八月三十一日竣工した。(後略)

 長野県諏訪大社の氏子でもある私は、鹿児島県神社庁の“一言”で、即座に「なぜ」が「当然」と理解できました。しかし、諏訪大社の特殊性(歴史)を知らない人はまだ霧の中かもしれません。
 まず、「現在の諏訪大社は一社だが、明治までは、諏訪神社上社諏訪神社下社は別の神社だった」ことを頭に入れてください。その上で「由緒」を補足すると、以下のようになります。

 島津公が上社・下社の両社を薩摩の総鎮守社として現在の鹿児島市に勧請した際に、「上社と下社を並列(結果として鳥居も並立)」という形式で造営した。その後、薩摩の各郷に同じ形式で分社が造られたが、時代の変遷や経済的理由で一基の鳥居のみが建てられるようになった。根占では「二鳥居の並列」で建て替えが続いたが、(逆に)本殿は上社と下社を統合した一つの社殿になったので、「不思議な並列鳥居」として知られるようになった。

川南諏訪神社の三神相殿

 幕末に薩摩藩が編纂した、『三國名勝圖會(三国名勝図会)』を見つけました。

諏方上下大明神社 地頭館より卯方、十一町余 小根占村川南にあり、上下の二社相並ぶ、祭神二座、建御名方命・事代主命 神体鏡、上宮下宮各三面を安す、勧請の年月詳びかならず、明応四年の鰐口、天文二十年の棟札あり、祭祀八月二十八日、当村の宗社なり、(後略)

 神体の鏡「上宮・下宮各三面」をどう解釈していいのかわかりません。三枚ずつ「合計六面」は多すぎるので、上宮・下宮・◯宮に各一面(計三面)としたほうが合理的です。これは「祭神三座」ということになるので、現在の本殿の形式からは合致します。しかし、『図会』と「鹿児島県神社庁」は「二社が並ぶ・祭神二座」を謳っています。
 文献上からは「幕末までは二社が並んでいた」ということなので、「明治以降に、現在見る三神相殿の本殿を造営した」ことになります。これは、鹿児島県に吹き荒れた「南方神社」への“変革の嵐”が、ここ大隅町では県都から離れていることもあって、新たに(南方神社の祭神)八坂刀売命を祀ったものの諏訪神社の名は残したということでしょう。

並立鳥居の参拝は「右の鳥居から…」

 川南諏訪神社は、いかにも効きそうな赤い鳥居とあって“縁結びスポット”として紹介されています。そのため、「左の鳥居から入り右の鳥居から出ると永遠に結ばれる」に乗せられたカップルも多いと思われます。私から見れば、祭神を“冒涜(ぼうとく)”するような「鳥居くぐり」ですが、「祟りで別れた」というような話は“長野県”では聞いていませんから、神様も大目に見ているのでしょう。

(由緒)正しい参拝方法

 祀られている事代主命と建御名方命は、兄・弟の間柄です。ここは諏訪神社ですから「まずは弟神に敬意を表してください」と書いてみましたが、…当地は薩摩でした。まったくの同格として鳥居も二基建ててしまった国ですから、「どちらを先に参拝するか」は考えなくてもよいことになります。しかし、現在お参りしている神様が“誰”なのかを知らないと、御利益が無効になる可能性があります。
 薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』では、「上社を左位・下社を右位」としています。これは祭神側から見た左右です。これまでに「祭神は同格」と書きましたが、やはり“上”社からということで、「右の鳥居→建御名方命→右鳥居」と参拝してください。次は下社ですから「左の鳥居→事代主命→左鳥居」となります。つまり、二社を別々に参拝するということです。もちろん「郷に入れば…」ですから、地元で推薦する“縁結び”を重視する方は、この限りではありません。

川南諏訪神社本殿
本殿は三神相殿

 ここまで書いてから、本殿が三部屋に分かれていたのを思い出しました(左写真)。こうなると私の手には負えませんから、“特定の願い”を叶えてもらいたいのなら、前もって、社務所か授与所でその相対位置を確認しておくことが必要になります。
 ここまで、つい話が“弾んで”しまいましたが、建御名方命と事代主命が(長野県の諏訪では)縁結びの神様とは聞いていません。

川南諏訪神社の古鳥居

 『南日本新聞社』のサイトで、昭和55年とある建て替え前の写真を見つけました。比べると、当時は「うり二つ」ではなく、右の鳥居が「転び」のない直立の柱で額束(がくつか)がないことがわかります。これが元々の形式とすれば、本殿の三神相殿から、諏訪系(建御名方命・事代主命)とそれ以外の祭神の鳥居が並立していたことになります。そうなれば、並立鳥居の中でも極めて珍しい形式となる可能性が出てきました。
 しかし、鹿児島県神社庁では、あくまで祭神を「建御名方命・事代主命」の二柱としています。


‖サイト内リンク‖ まだある!「鹿児島(薩摩)の並立鳥居」