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崎津諏訪神社 熊本県天草市河浦町崎津 29.1.24

熊本県天草市崎津 上島の元諏訪神社からとって返し、今は天草市となった旧本渡市を抜けて下島を横断しました。山の中をひた走りに走ったというのが印象ですから、島と言う意識はまったくありません。ようやく海辺に出て、九州諏訪神社巡拝の“上がり”となる崎津の集落に入りました。
 それにしても、「天草ではスピード違反の取り締まりはやっていないのか」と思えるほどの、70Kmを越す“天草標準速度”に驚きました。私としては、先頭を走ることを極力避けましたが…。

崎津天主堂

崎津天主堂と崎津諏訪神社 今回の天草の旅では、崎津の地にある諏訪神社は絶体外せないと位置づけていました。その理由は、諏訪神社とキリシタンの関係にあります。それについては、南島原市秘書広報課のウェブマガジン『知られざるキリシタン王国、光と影。』の〔第9話 神社と共生した潜伏キリシタン〕の一部を転載する、という形で紹介します。

※ http://christian-nagasaki.jp/stories/9.html
神社との共生

 天草の入り組んだ羊角湾のほとりに位置するア津集落はその1つです。住民の多くは漁業を営み、江戸時代は海路でなければ通行もままならないという隔絶された土地でした。外部の人の往来があまりないこの集落のキリシタンは、表向き仏教徒を装いながら、ひそかに洗礼やオラショを伝承していきました。
 独自の信徒組織も営まれ、集落の長老格が「水方」とよばれる指導者となり、子どもの誕生時に洗礼をさずけたり、仏式葬儀のときに経消しを唱えたりしたそうです。
 ア津の潜伏キリシタンは、アワビ殻や一文銭、鏡などを聖器として信仰する一方、集落を見下ろす山の斜面に建つア津諏訪神社も大切にしていました。この神社に潜伏キリシタンが参拝する際には「あんめんりゆす(アーメン、デウス)」と唱えていたという記録が残っています。自らの信仰と神社の様式をうまく摺り合わせながら共生していったことがうかがえます。

天草崩れ

 1805年、ア津をはじめ今富、大江、高浜の4村の潜伏キリシタンが「宗門心得違者」として摘発されます。これらの村では講会と称して夜分集まったり、神前で変わった参拝をする風習があるようだと、長崎奉行所や江戸幕府に報告されたのです。その結果、5千人あまりが摘発されました。
 ただし彼らはキリシタンとしてではなく、「心得違いの者」として摘発されました。関わった役人は潜伏キリシタンであると事実をつかんでおきながら、婉曲して報告したのです。事を大きくせずに穏便に済ませようとしたことが読み取れます。
 摘発された人々は村から出ないよう出郷差し止めとなり、信仰していた聖器は「異物(仏)」として没収されました。幕府や奉行所もこの天草崩れを深追いする事はなく、潜伏は明治維新までつづくことになります。

 諏訪神社を参拝する身としては、安易な表現ですが「悲劇の場所」でなかったことに救われました。

崎津諏訪神社 28.12.7

 拝殿脇にある案内板ですが、まずは前半部分を紹介します。

 このお宮は正保四年(1647)四月、肥前国崎陽(現在の長崎)下諏訪宮の宮司藤原但馬掾(じょう)忠次(後木下家養子)が、当村崇敬者の大漁及び海上航海安全満足祈願の意を奉じて、信濃国上諏訪宮より御分霊を勧請して現在地に鎮座せしものなり。
 万治二年(1660)御神幸祭を創始。享和元年(1801)当地に疱瘡が大流行。罹病者五百余人に及び、これを憂いて第九代木下播磨正藤原忠政宮司が神嶋神(鴨一速大明神)疱瘡の神様を勧請。平癒祈願の上当社に併祀せしものなり。

 参道入口に狭いながらも駐車場があり、12月の平日とあって、我が物顔に駐めることができました。観光目的なら「まずは崎津天主堂へ」ですが、私は「諏訪神社」です。ところが、参道の先には、ショベルカーが通せんぼしていました。

崎津諏訪神社
手前が一之鳥居。額束は「諏訪宮」

 九州自動車道では熊本地震の修復工事で対面通行の区間がありましたから、「その影響がここにも」と思いました。

崎津天主堂と崎津諏訪神社「二之鳥居」 しかし、境内横にある東屋の工事と教えられ、迂回路を伝って二之鳥居が建つ境内に立ちました。
 やはり、崎津天主堂の存在は大きなものがあります。誰もが思いつくように、鳥居の写真に、その尖塔を取り込んでみました。

崎津諏訪神社と崎津天主堂 さらに上の壇に立つと甍の波が広がり、その中から突き出たような天主堂の存在感が増しました。
 この光景は天草独自のものですから、「それぞれの氏子と信徒がお互いをどう眺めているのか」と世俗的な思いに駆られました。その勝手な思いを、狛犬に託して表現してみました。

崎津諏訪神社の鳥居 この鳥居には、多くの文字が刻まれています。その中に「諏訪霊神」とあるのを見つけました。
 左の「遷此崎津」が「此の崎津に遷し」と読めたことから、何か面白くなって、その他の文字列を何枚かカメラに残しました。これが、“後の解明”に繋がりました。

崎津諏訪神社 谷の底をなぞるようにして社殿が奥に延びています。「この時期は」と確信を持って言えませんが、日陰となった社殿には、天草にある諏訪神社のイメージはありませんでした。

 案内板には、拝殿や本殿についての説明がありません。そうなると、大棟の鯱(しゃちほこ)を眺め終われば、まだ決めていない四国入りをどうするかが目前の課題となって胃を重くさせます。
 フェリーと瀬戸大橋の選択がありますが、取りあえずジャンクションがある久留米をナビにセットしました。

天草最古の鳥居

 案内板の続きです。

 二の鳥居は、貞享二年(1685)六月宮司木下主水佐(もんどのすけ)忠好の代のもので、現存しているものでは天草最古のものである。それには次のような貴重な文字が刻銘されている。(□印は現在欠落しているところ)
 諏訪霊神維徳維新曽従科野 遷此崎津鎮肥後国本草民
 嘉禾年熱□□日録黎庶抽悃 華表ワa□□嶋世下□□□

 これは「四言詩」のように読むべきではないか、と直してみました。

諏訪霊神 維徳維新 曽従科野 遷此崎津 鎮肥後国 草民
嘉禾年 □□日録 黎庶抽悃 華表ワa □□嶋世 下□□□

 これを読むと、意味不明となる箇所があります。ここで、お節介と言われようとも、私の探究(追求)心がムクムクと…。
 撮っておいた写真を突き合わせると、「澤」が抜けています。誤字もあり、「本→天・熱→熟」と修正して、以下を“原本”としました。

諏訪霊神 維徳維新 曽従科野 遷此崎津 鎮肥後国 澤草民
嘉禾年 □□日録 黎庶抽悃 華表ワa □□嶋世 下□□□

 1行目は「諏訪霊神の維徳維新を曽(すべ)て科野(信濃)より此の崎津に遷し、肥後国を鎮め天草の民を澤(うるお)し」となりました。
崎津諏訪神社の鳥居 ところが、次を「禾(いね※稲)の熟れる年を嘉(よみ)し」と強引に読んでみましたが、「華表」が鳥居と知っていても、その前後が読め(わかり)ません。前半で諏訪霊神の威徳をよく表現しているので、これで終わらせることにしました。

崎陽(きよう)

 案内板の続きから、鳥居造立分のみを転載しました。

貞享二乙丑六月

肥前国崎陽晧臺禅寺(こうだいぜんじ)湛元(たんげん)□□ 吉田新右衛門 松田興次右衛門 増田孫兵衛 浦壁伊兵衛 当村庶民等同拾資敬立 石工本山徳兵衛

 「崎陽って何だ」と調べると、なぜ長陽ではないのかの説明はありませんが、「長崎を中国風に呼んだもの」とあります。ここで“シューマイの崎陽軒(きようけん)”が理解できたというのは置いて、「信陽」にリンクしました。
 話は長野県へと大きく飛びますが、諏訪大社下社「春宮の大灯籠」に「信陽」が刻まれています。長らく「信州の別称らしい」としていたのですが、「信州を中国風に(しゃれて)呼んだもの」と納得しました。