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阿智原諏訪神社と御射山社 下伊那郡下條村阿智原 24.11.11

下伊那郡下條村 かつて、下條村から阿智村に抜けたことがあります。予想外の狭い道に後悔しましたが、対向車と遭遇することもなく“通常の道”に戻りました。その集落で“諏訪”神社を目にし、休憩を兼ねて参拝しました。6年前のことです。

諏訪神社

 下條村の御射山社を参拝したので、“対応”する諏訪神社に向かうことにしました。ところが、鳥居を見ることなく、この先は阿智村とわかっている峠の入口まで来てしまいました。「なぜだろう」と思い起こす中で、阿智村にある神社を諏訪神社と思い込んでいたことがわかってきました。あくまで「下條村の諏訪神社─御射山社」の関係が肝心ですから、情報を得るために一番近い下條村役場まで戻ることにしました。
 (村誌や広報誌などがよく置いてある)ロビーに書棚がないことを確認したので、カウンターの近くにいた職員に『下條村誌』の閲覧を申し込みました。目次を見る中で、『村誌』より「村民」に訊いた方が早いと、彼にここへ来るに至った経緯を話してみました。運良く“その手の話は好きだ”という方で、『下條村全図』を持ち出して「諏訪神社なら、阿智原にある」と教えてくれました。
 入庁時に正午のチャイムが鳴っていました。それを心配すると、「昼休みの担当だから」と言うので、心置きなく話を進めることができました。その中で先ほど参拝した御射山社の氏子ということがわかり、穂屋から大山田神社の例祭まで話が弾みました。

阿智原諏訪神社

 道の駅と日帰り温泉私設「コスモスの湯」を横に見てさらに進むと、その先は、職員の話通りに大きな下りになりました。すでにカーナビにセットしてありますから、「目的地です」の声で徐行すると、参道とその奥に鳥居が見えました。
 「路上駐車が正解だった」と後悔しましたが、一車線幅とあっては前進するしかありません。生け垣から飛び出た枝葉やススキの穂が車体をなでる音を気にしながら、ソロソロと進みました。幸いにも鳥居脇を巻く道があったので、広い境内に入ることができました。

下條村の諏訪社 写真の鳥居を背にして今通ってきた参道を眺めると、左前方のススキの間から瓦礫の山が見えるのに気が付きました。「神社の近くなのに、何が…」と近づくと、敷地がすべて舗装してあります。何かの事業所があったことは窺われますが…。
 参集所(社務所)の右手に、境内社としては比較的大きな社殿があります。今は祀る人もいないようで、屋根に「三つ柏」が確認できただけでした。

諏訪社「神楽殿」 諏訪神社の拝殿は開放された造りで、渡り廊下で参集所と結ばれています。この廊下を通って登場した神人が神楽を舞った時代があった、と勝手ながら想像してしまいました。
 拝礼を済ませてから拝殿に上がってみました。梁に寄付者の名札がびっしりと掛けられていますが、それとは別に「金的中」の奉納額がありました。「昭和11年10月12日」とありますから、大山田神社や御射山社と同じ例祭日です。「大日本武徳会々員 下條村 斎藤數一」とあるので、戦前までは、下條村では秋の例祭日に奉納弓射が盛んに行われたことが想像できました。

諏訪社本殿 本殿覆屋の屋根は瓦葺きで、鬼板には神紋の「立穀」が見えました。
 側面は格子なので、その間から本殿を撮ることができました。御射山社を見てきたばかりなので、まことに慎ましい本殿に映りました。その前の柱に結わえられたソヨゴの葉が緑を保ち紙垂も真っ白なので、“今年も”秋の例祭が行われたことがわかります。

境内社 覆屋の裏に廻ると、壊れた木祠とかつてはこの上に祠があったと思われる石の基壇が見えます。
 「旧本殿跡だろうか」と近づくと、尾根筋に沿った下方には写真のような境内社が連なっていました。祭祀者が存在することを証明する最低限の注連縄もありませんから、朽ち果てるのを待つだけという状態でした。それらが設置してある斜面を基準にすると、こちらが表参道のように思えますが、谷側には藪があるだけで道らしきものを見つけることはできませんでした。

諏訪社本殿 覆屋の鬼板が立派なので紹介します。鬼瓦も含めて諏訪社の分社に使われる梶の一枚葉「立穀」が“作り付け”られていますから、かつては、この諏訪神社は大いなる存在だったと思われます。立穀は全国の諏訪神社で用いられていますが、諏訪大社がある長野県では少ないので久しぶりに見た思いがしました。
 藪になっているので境内なのか境外なのかわかりませんが、柿がたわわに実っています。参拝記念として四つ頂き、下條村の諏訪神社を後にしました。

阿智原の諏訪神社と御射山社

 近世における下條村の変遷です。

 明治8年に、小松原村・阿知原村・大久保村・粒良脇村・親田村・山田河内村が合併して睦沢村(むつざわむら)となる。明治22年に、陽皐村(ひさわむら)と合併して下條村となる。
『Wikipedia』の〔歴史〕から抜粋

 阿智原の諏訪神社は、旧阿知原村の村社ということになります。そのために覆屋にも特注の鬼板を設置することができ、かつては大きな本殿があり例祭も盛んに行われたことが想像できます。しかし、江戸時代末期から明治初頭のことなので、御射山社との繋がりは見えません。
 それでも、下條村の地図を眺めると、阿智原の諏訪神社(北)─北又の御射山社(南)は“格好”な位置関係にあります。しかし、手持ちの資料を読み直す中で、どうも“この関係”は成り立たないように思えてきました。

御射山社 文明七年(一四七五)下条氏七代源康氏(やすうじ)が、古城(ふるじょう)(大沢)より吉岡城へ城替の際に、粟野千貫松に鎮座していた御射山社を、鬼門除として移し、

下條村誌編集委員会『下條村誌』

古城八幡社 頼氏(ゆりうじ)は城内に祠を造立し正八幡大神を祀り、領内の千貫松の地に諏訪大明神を祀った。下条氏が吉岡城に移った後、現在の正八幡大神の社殿を造営し諏訪大明神も移した

長野県教育委員会『歴史の道調査報告書』

 御射山社の“存在意義”が成立するのは、本社の諏訪神社(現諏訪大社)が隆盛を極めた中世以前のことです。この地では下条氏の時代と重なるので、阿智原より、当時の古城八幡社の摂社諏訪社との関係を求めるべきとなりました。
 しかし、地図上で旧鎮座地である「粟野(千貫松)」を見つけてはみたものの、諏訪神社と御射山社の両社があったのかは、異なった著者の記述とあって確定できません。

 図書館で、再び『下條村誌』を手にしました。

阿智原諏訪神社
御祭神 建御名方命、速秋津姫命、
 創立年月日不詳、明治五年十一月村社に列し、明治四十四年六月二十二日認可、字松木洞無格社、水無社祭神速秋津姫命を同九月二十日に合併合祀した。以前神社は宮の原に鎮座し、その社地の地形は三方断崖で孤立しており、古城址を偲ばせ、おそらく阿知原に居住していた下条九兵衛氏長居城の跡といわれ、社域には老木が繁っている。社殿は「一間流造り」で普通の社殿様式であり、前面に広い拝殿があり本殿は鞘(さや)堂の中にある。神域も広く裏側には村内各家の氏神が十数社奉祀されているのが特色である。

 マーキングした箇所を読んで、今は祀る人がいない本殿裏の祠が旧阿知原村民の氏神と理解できました。

 ここには「阿智原・阿知原」と二つの表記があります。旧阿知原村から、阿知原が古い名称と思われます。