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天津司の舞と諏訪神社 山梨県甲府市

 文化庁『文化遺産オンライン』の〔無形民俗文化財−中部〕から、〔天津司舞〕の一部を転載しました。

【 天津司舞 てんずしまい】重要無形文化財
甲府市小瀬町の天津司神社で九体の人形を本殿から降ろし、一人一体ずつを奉じて諏訪神社に道楽を奏しながら練行する。
「てんづし」が◯?

 文化庁では「の」が抜けた「天津司舞」ですが、地元の呼称「天津司の舞」が国重要無形民俗文化財の第一号に指定されていたことを知り、強い興味を覚えました。

天津司の舞を見学 22.4.4

天津司神社

天津司の舞を演じる人形
御幸を待つ天津司人形(奥が収蔵庫)

 拝殿に貼り出された〔祭典執行〕のトップに「神官お迎え 11時50分」とあります。その時間に神職が消防団員二名の先導で忽然と現れたので、「神官を迎えに行く」のではなく、「諏訪神社の宮司が、天津司神社(収蔵庫)の神像を迎えに来た」ことがわかりました。

諏訪神社へ御幸

 神事が終わると、行列は、最短距離ではなく小瀬スポーツ公園内の道を複雑に曲がって行きます。かつての神幸路に近い道をたどっているのでしょうか。

天津司人形の御幸

 神像の顔はいずれも赤い布で覆われています。事前に参照した情報には「なぜ」の答がないので、「神像に、御幸をしていることを悟らせないため」と考えてみました。

鈴宮・諏訪神社(鹿島神宮と諏訪大社)

 拝殿の扉としては珍しいシャッターが上げられ、定紋幕の神紋が左右で違っているのが確認できます。奥に見通せる本殿も二部屋に分かれていますから、「初めは別殿だったが、後に相殿になった」も頷けます。
天津司の舞が奉納される鈴宮神社・諏訪神社 左の紋が諏訪社に多い「立穀の葉(梶の一枚葉)」ですから、左の祠が「建御名方命(諏訪明神)を祀る諏訪社」であることがわかります。
 一方の「鈴宮神社の祭神は天児屋根命(鈴ノ宮明神)」と言われていますから、右の神紋「下がり藤」が、中臣氏(藤原氏)─建御雷命(鹿島神宮)と繋がります。
 私には、建御名方命にとっては“目の上のタンコブ”とも言える建御雷命(天津司の舞では御鹿島様)が、相殿として隣に祀られているのが何とも奇異に映ります。諏訪では絶体にあり得ない“構成”ですが、“諏訪頼重の事”もありますから、甲州の風土には諏訪社の歴史を考慮する意識はまったくないのでしょう。

カシの幣帛

 天津司神社からの御幸では、先頭の神職が大幣(おおぬさ)でお祓いをしながら進みました。甲府は暖かいので当然「榊」と思っていましたが、ヤナギのように細長い葉に見えます。
カシの幣帛 玉串奉奠でも同じ枝葉なので、神職に確かめると「カシ(樫)」と言います。オウム返しの「カシですか!?」に、指の先に本殿左にそびえ立っている樫の大木を示しました。
 高地の自宅では今朝も霜柱が立ちました。すでに目に馴染んでいた満開の桜は受け入れていましたが、ここで青々と茂っているカシの木を見上げると、改めて季節の違いに違和感を覚えました。

平成の天津司の舞

 「桜をバックに季節感を」としたのが間違いで、杉葉下の一枚を除いては背景がゴチャゴチャしてしまいました。

天津司の舞1
ササラspace大鼓
天津司舞
鼓(つづみ)space

 人形は、ササラと大鼓は各二体あるので「一ノササラ・二ノササラ」と呼ばれます。「御船囲」と呼ばれる幕の内側を踊りながら廻りますが、初めは、なぜ「天津司とは当て字で、傀儡(てずし)舞の田楽芸能である」なのかわかりませんでした。それも、笛太鼓に合わせて楽器を操作する「しぐさ」を見ている内に、やはり「傀儡・操り人形」と納得できました。

天津司の舞「御鹿島様」 「御鹿島様」です。楽器ではなく、両手に剣を持って舞いますから主役であることは間違いありません。
 しかし、本来は諏訪神社に奉納する天津司の舞に、なぜ建御名方命を追放した御鹿島様(建御雷命・武甕槌命)が脚光を浴びているのかが理解できません。もっとも、ここで、信濃国から甲斐国に異議を唱えても“内政不干渉”で一蹴されるだけでしょう。
 この時に、30cm位の木の小刀が数本縁起物として撒かれます。ところが、幕の内側から投げ出されるので、タイミングも場所も全く予測がつきません。私は、争って拾う群れにさえ加われませんでした。

天津司の舞「御姫様と鬼様」

 舞の最後は、(正式な神名があるそうですが)「御姫様」と「鬼様」です。初めに登場した「姫」から半周(180度)離れた位置で、「鬼」が払子(ほっす)を振り回して周回するので、「御鹿島様の妃を追う姿」を表現しているのは間違いありません。この舞にストーリー展開があるとすれば、順番を入れ替えて「姫を追う鬼を鹿島神が助ける」としたほうが良さそうですが…。

天津司神社へ還御

天津司人形の還御 舞が終わると、神像の顔は再び赤布でくるまれました。花見と(流れてくる応援歌でわかった)サッカーの試合で沸いている小瀬スポーツ公園内を、御幸の行列は、我関せずと古のペースを保ったまま天津司神社へ戻りました。

天津司の舞について

天津司の舞と諏訪神社

 山梨県立図書館編『甲斐国 社記・寺記』から〔諏訪神社〕です。

 当社之(の)儀ハ、往古村内時宗玉田寺之寺域宮地ニ御座候処(ござそうろうところ)、鎌倉右大将家之御時(※源頼朝の時代)武田五郎信光ハ軍功に依而(よりて)中郡を賜り城地御見立之上召方ニ被命(めいじられ)処、之(これ)当社之儀御相応ニ付神殿を下鍛冶屋村鈴宮に移(たてまつ) 昔ハ両社相別殿に御座候処、何れの頃か相殿に罷成申(まかりなりもうし)。居城ニ御取立被成(なられ)、今居館と申候。
 其後石和館ニ御遷(かえ)リ被成(なられ)候而(そうらいて)も数拾世間親戚之内有功(※手柄をたてた)之輩(やから)ここに苺(ふうじられ)候由(そうろうよし)当社之儀申(す)。甲斐源氏殊ニ御尊崇之神ニ而(して)時々御造営御座候事(ござそうろうこと)上梁文(※棟札)社記に相見へ申候。
 今居館廃シ而(して)後ハ武田家之後室(※未亡人)尼ニ相成リ一宇(※軒)の草堂をいとなみ国伝寺と称す。諏方明神之旧跡たるを以て是を伽藍神(がらんじん※寺院を守る神)とし堂前に旧処石碑有。又寺域の乾位(※北西)に当り諏方水とて清水有。是古(いにしえ)のミたらし(御手洗)の由。

神像は、なぜ目隠しを…

 ここに、「諏訪神社は玉田寺の寺域にあったが、下鍛冶屋町の鈴宮に移った」と書いてあります。神像は御幸時に顔を布で覆いますから、「御幸先(下鍜冶屋村)の鈴宮・諏訪神社」を「(小瀬村の)旧諏訪神社の境内」と思わせる(だます)ために目隠しをしたと考えてみました。“人質の目隠し”と同じで、何らかの不都合があって、神像には縁(ゆかり)の地を離れたことを悟られたくないという「配慮」をしたのでしょう。 

玉田寺

玉田寺跡
玉田寺跡(22.10.10)

 その玉田寺を調べると、とうの昔に廃寺になっていました。
 その前に立ってみましたが、現在は石仏や石塔が残っているだけでした。宮所がどこにあったのかわかるはずもなく、その周囲を見渡すだけに終わりました。

 同書の〔天津司舞〕に、天津司舞の由来が書いてあります。

 当社ハ往古何れの頃に有けん。此辺(このあたり)総て河原之時毎々吉祥日夕栄(ゆうばえ)朝栄抔(など)の日、十二の神形天降り舞楽玉ひし(給いし)に、二躰わ天江のほり(へ昇り)一躰は此近処西油川と申所の旧井(※古井戸)に入てより(より)、神形九ツ顕(現)れ玉ふて舞遊しか。其後村里となり穢(けがれ)不浄故か其の事止ぬ。
 暫(しばら)ク有て後、何れの人か彼(かの)神形を移(写)し神像に造しか(が)天津司の濫觴(らんしょう※始まり)なり。其後此所の名を古瀬村と云。
 勧請年代久遠(くおん)(ゆえ)不詳。大永二年壬午(1522)武田民部少輔(みんぶのしょう)信乗修造(しゅうぞう※修理)、閏(うるう)八月二十七日成就と棟札に御座候(ござそうろう)
 今に七月十九日祭礼有之(これあり)。当社古来の百姓十七軒十七日潔斎いたし九躰の神形を供奉(ぐぶ)いたし下鍛冶屋村諏訪鈴宮の社中ニ御幸有。神遊神事修行仕(つかまつり)候。神遊式九躰の古式わ神主并(ならびに)十七軒の百姓代々の口伝ニ仕置申(つかまつりおきもうし)候。
 西油川の井古名「鏡の井」と申。今に七月十九日神遊の時刻には水の上に影あらわれ舞遊と申伝(申し伝え)神形乃正しく顕然(けんぜん)とうつるを以(もって)鏡の井と云。此村他に井なし。一村此水をくみ遣い水とす。掘抜にて清冷徹骨(てっこつ※骨までとおる)候。経行(※生理)の婦不浄乃もの其他非人乞食の類(たぐい)禁汲之(これ汲むを禁ず)。若過而(もし誤って)汲之時ハ急(に)濁ると云々(うんぬん)。七月十九日には一日水を汲置蓋をいたし標(※注連縄)はえて不散を。毎年祭礼中如斯(かくのごとし)。祭礼相済み夕方蓋取る由。
(※)「鏡の井」は、西油川の諏訪神社境内に伝承として現存

 文末にある意味不明の「はえて不散を」ですが、甲斐叢書刊行会『甲斐国志』では「敢えて近づかず」とありました。「敢不近」の誤読でしょうか。

鏡の井

鏡の井
伝「鏡の井」西油川諏訪神社境内(22.10.10)

 「西油川村には井戸が一つしかない」とありますから、神形の一体が“入った”旧井はこの「鏡の井」になります。
 村人は「祭礼日の7月19日には水面に影が現れて舞う」のを恐れたのでしょう。一日使う分の水を汲み置きし、井戸には蓋をして注連縄を張ると伝えています。入水した原因が過失・自殺・他殺のいずれなのかは不明ですが、この世に未練があることを窺えさせます。

長野県諏訪から見た「天津司の舞」

 私には、伝承にある「戯れ舞う九躰の神様」と天津司舞とが繋がりません。現在の舞を見る限りは「この世の春を謳歌している鹿島神を、諏訪神が追い詰めている」と見た方が自然で、伝承を絡めると「二人を天に追い払い、一人を池(井戸)で溺死させ、残る九人を追い詰めつつある」ように取れます。天津司の舞は、やはり「建御雷命を始めとした天津神を追い詰める建御名方命の図」なのでしょうか。これなら、諏訪神社で奉納される舞として理解できます。
 「社記曰く」とあるので『社記』が原典と思いますが、『甲斐国志』では以下のように載せています。

(前略) 其孫(そのまご)民部少輔信乗大永二年壬午八月二十七日神像を製して本殿に奉納し今に存せり。(中略)
〔天津司〕昔は諏訪明神の神前に飾置しが下鍜冶屋へ遷座の時より神主宅中に神庫を立て之を安置す。最初十二く(体)あり。中世に至りて二くは天に上り一くは西油川村の釜池に没すと云傳(言い伝)う。(後略)

 「これはわかりやすい」と言うか無理がありません。領主が神像を十二体作って諏訪神社に奉納した。二体は(度々の洪水で)行方不明、一体は壊れたので縁(ゆかり)の釜池(鏡池・鏡の井)に沈めたということでしょう。

 神像は十二体揃って、初めて意味がある(完結する)のでしょう。抜けた三体が演じられないために意味不明となり、私のような興(う)がった解釈をすることになります。そのため、失った三体が何の役割を演じていたのかが気になります。
 九体の中に「一ノ鼓・一ノ笛」があります。しかし「二ノ」については記述が無いので、かつては「二ノ鼓・二ノ笛」が存在していたことがわかります。これで計十一体となりましたが、残りの一体が…。悩んだ末に「御鹿島様の従者」としました。

天津司舞「鬼様」 このオールスターの十二体で演じさせると、楽士二人を追い返し・ボディガードを水死させ・妃を奪い・何も知らずに“舞い上がっている”鹿島神を笑っている物語になりました。
 左の写真を見て下さい。この得意げな顔から、やはり、主役は鬼様(建御名方命)でしょう。現在も、鈴宮の周囲を諏訪神社五社で包囲していますから、後は御鹿島様を追い払うだけです。
 これは、あくまで諏訪神社を中心に据えた見方なので、山梨県や茨城県民の皆さんは無視して下さい。