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天津司舞について

天津司舞「縁(ゆかり)の地」を訪ねる

諏訪神社跡(玉田寺跡)

 『甲斐叢記』に「此の社(諏訪神社)は古この村(小瀬村)の玉田寺の域内に在りしが…」とあります。

天津司舞縁の「諏訪神社跡」
かつて天津司舞が奉納された諏訪神社跡(22.10.10)

 五割川沿いにある、諏訪神社跡・小瀬氏館跡でもある玉田寺跡の前に立ってみました。しかし、天津司舞の故地であっても、「数基の石造物と墓石を残すのみ」そのままの光景でした。結局は、JA集出荷所の建物を見て帰ることとなりました。

西油川「鏡の井」

 『甲斐叢記』に、「(天津司は)最初十二体ありしが、中世に至りて二体は天に上り、一体は西油川村の釜池(鏡の井)に浸(い)りぬと言い伝う」とあります。

天津司舞縁の「鏡の井」
鏡の井(22.10.10)

 現在は、旧油川村の諏訪神社境内に「鏡の井」があり、天津司の一体が入ったと伝えられています。しかし、埋設した土管に水がたまっているだけで、すでに跡になっていました。それでも、垣には注連縄が張られていました。

長野県諏訪から見た「天津司舞」

 私には、伝承にある「戯れ舞う九体の神様」と、諏訪神社に奉納される天津司舞とが繋がりません。現在の舞を見る限りは、「この世の春を謳歌している鹿島神を、諏訪神が追い詰めている」としか映らないからです。

 『甲斐国志』の記述は、「領主が神像を十二体作って諏訪神社に奉納した。二体は、度々の洪水で行方不明。一体は壊れたので、釜池(鏡池・鏡の井)に沈めた」と解釈できます。これは、「二人を追放し、一人を池(井戸)で溺死させた」と言い替えることができます。つまり、天津司舞にストーリーがあるとすれば、しんがりの一人(鬼)が「残る八人を追い詰めつつある」となります。

天津司舞「鹿島様」 そもそも、天津司舞は諏訪神社に奉納される舞です。ここに、諏訪神を屈服させた鹿島神が主役で登場すること自体が奇異ですから、これは「天津神(あまつかみ)の建御雷命を追い詰める建御名方命の図」となります。

 やはり、神像は十二体揃って、初めて意味がある(完結する)のでしょう。抜けた三体が演じられないために意味不明となり、私のような興(う)がった解釈をすることになります。そのため、失った三体が何の役割を演じていたのかが気になります。
 改めて考えると、九体の中に「一ノ鼓・一ノ笛」があります。しかし「二ノ」については記述が無いので、かつては「二ノ鼓・二ノ笛」が存在していたことがわかります。これで計十一体となりましたが、残りの一体が…。悩んだ末に「御鹿島様の従者」としました。

天津司舞「鬼様」 このオールスターの十二体で演じさせると、「楽士二人を追い返し・ボディガードを水死させ・“舞い上がっている”鹿島神とその妃を奪いつつある物語」となりました。
 左の写真を見て下さい。この得意げな顔から、やはり、主役は鬼様(建御名方命)でしょう。現在も、鈴宮の周囲を諏訪神社五社で包囲していますから、後は御鹿島様を追い払うだけです。

 これは、あくまで諏訪神社を中心に据えた見方なので、山梨県や茨城県民の皆さんは無視して下さい。

古文献に見る山「天津司の舞」

 参照した古文献を並べてみました。興味のある方は一読してください。

山梨県立図書館編『甲斐国 社記・寺記』

 〔諏訪宮・鈴宮 山梨郡中郡筋小瀬村鎮座

 当社の儀は、往古村内時宗玉田寺の寺域宮地に御座候処(ござそうろうところ)、鎌倉右大将家の御時(※源頼朝の時代)武田五郎信光は軍功に依りて中郡を賜り、城地御見立の上召方に命じられ処、当社の儀御相応に付神殿を下鍛冶屋村鈴宮に移し奉り 昔は両社相別殿に御座候処、何れの頃か相殿に罷(まか)り成り申し候。居城に御取立て成られ、今居館(いまいのたち)と申し候。
 其後石和館(いさわのやかた)に御遷(かえ)リ成られ候いても、数拾世間親戚(みうち)の内有功(※手柄をたてた)の輩(やから)ここに封じられ候由(そうろうよし)。当社の儀申す。甲斐源氏殊に御尊崇の神にして、時々御造営御座候事(ござそうろうこと)上梁文(じょうりょうぶん※棟札)社記に相見へ申し候。
 今居館廃して後は武田家の後室(※未亡人)尼に相成り、一宇(※軒)の草堂をいとなみ国伝寺と称す。諏方明神の旧跡たるを以て是を伽藍神(がらんじん※寺院を守る神)とす。堂前に旧処石碑有り。又寺域の乾位(※北西)に当り諏方水とて清水有り。是れ古(いにしえ)の御手洗の由。

 〔天津司宮 山梨郡中郡筋小瀬村鎮座

 当社は往古何れの頃に有りけん。此辺総て河原の時、毎々吉祥日夕栄朝栄(ゆうばえ・あさばえ)などの日、十二の神形天降り舞楽給いしに、二体は天へ昇り、一体は此の近処西油川と申す所の旧井に入りてより、神形九つ現れ給うて舞遊びしか。其後村里となり、穢(けがれ)不浄故(ゆえ)か其の事止みぬ。
 暫(しばら)くありて後、何れの人か彼(かの)神形を写し神像に造りしが天津司の濫觴(らんしょう※始まり)なり。其後此所の名を古瀬村と云う。
 勧請年代久遠(くおん)(ゆえ)不詳。大永二年壬午(1522)武田民部少輔(みんぶのしょうゆう)信乗修造(※修理)、閏(うるう)八月二十七日成就と棟札に御座候(ござそうろう)
 今に七月十九日祭礼これあり。当社古来の百姓十七軒十七日潔斎いたし、九体の神形を供奉(ぐぶ)いたし下鍛冶屋村諏訪鈴宮の社中に御幸(みゆき)あり。神遊(かみあそび)神事修行仕り候。神遊式九体の古式は神主并(ならび)に十七軒の百姓代々の口伝に仕り置き申し候。
 西油川の井は古名鏡の井と申し、今に七月十九日神遊びの時刻には水の上に影あらわれ舞遊ぶと申し伝え、神形の正しく顕然(けんぜん)と映るをもって鏡の井と云う。此村他に井なし。一村此水をくみ、使い水とす。掘抜にて清冷徹骨(てっこつ)候。経行の婦・不浄のもの・其他非人乞食の類(たぐい)これ汲むを禁ず。もし誤ってこれ汲むの時は急に濁ると云々(うんぬん)
 七月十九日には一日水を汲み置き、蓋をいたし標(しめ※注連縄)を引き、はえて不散を(あえて近づかず?)。毎年祭礼中かくの如し。祭礼相済み夕方蓋取る由。(中略)
 右(※天津司)往古は諏訪の神前に飾り置き候処、諏訪の宮下鍜冶屋村鈴宮の社地へ引き候節、天津司は神主屋敷へ文庫を建て安置す。(後略)

大森快庵 著『甲斐叢記』

 〔雀宮(ささのみや) 下鍜冶屋村

 許勢祠(こせのやしろ)の行宮(うりみや)にて雀部(ささべ)明神と祀りしかど、今は諏訪明神を配せ祀れり。古は此地巨勢小柄(こせおがら)と続き、一帯の地にて後世に三村と分かれしと見ゆ。すでにも言いし如く古事記に出たる地なり。
 然(さる)(※さて)、雀をスズメとそ読める故(ゆえ)、人誤りてスズメミヤと称しを更に訛りて、今は鈴宮とのみ呼ぶことになりぬ。

 〔諏訪明神 小瀬村

 建御名方命・天児屋根命を合わせ祀れり。社記に、此の社は古(いにしえ)この村の玉田寺(ぎょくでんじ)の域内(さかいうち)に在りしが、武田五郎信光朝臣の時、神殿を下鍛冶屋村の雀宮(ささのみや※鈴宮)へ遷して居館と営み今居館(いまいのたち)と言う。
 その後石和館(いさわのやかた)に移居(ひきうつり)てより数世の間、此の地をば親戚(みうち)の功(いさお)ある者に宛行(あておこな)わる。
 宝徳中より巨勢宮内少輔(こせくないしょうゆう)信賢の居館となれり。その孫民部少輔信乗、大永二年(1522)八月諏訪明神の像を刻みて本殿に納めと伝う。巨勢氏断絶の後、夫人一蓮寺の任阿上人の弟子となりて此に住み至り。是より遂に寺地と成り至り、寺内に諏訪明神の碑及び諏訪水と言い伝うあり。
 此の社内に天津司と言える古木偶(ふるにんぎょう)あり 按に天津司はテグツを誤りたる成るべし。社記にその始めを知らず。然れど昔は諏訪明神の神前に飾り置きしが、下鍜冶屋村へ遷座の時より神主の家に納め置けり。
 最初十二体ありしが、中世に至りて二体は天に上り、一体は西油川村の釜池に浸(い)りぬと言い伝う 釜池古は鏡池と呼べり。此の村外(ほか)に井泉(いみず)なく、村内是を汲めり。深くして底なく至りて清冷(きよらか)なり。不浄の者汲む事を忌ましむ。もし誤りて汲む時は忽ち濁れり。祭の前日よりは蓋を覆いて汲む事を許さずと言う
 今残れるは九体なり。其の大きさ人長(ひとだけ)にあるべし 俗に九曜の星に象(つかさど)るという
 七月十九日、本社より下鍜冶屋村雀宮(※鈴宮)へ神幸ありて、社庭にて天津司祭を興業せり。其場を竹もて拵(かこい)をなし、幕を張るを御船という。
 小瀬村舊家(そうけ)の者十七戸(けん)七日の斉(ものいみ)をなし、子弟ども相会(あつま)り、天津司を奉(ささげ)て拵の内へ入り雨淋(あまだれ)拍子に鼓吹(うちはや)して、一編木(ささら)・二編木・一太鼓・二太鼓・一鼓・一笛 以上みな頭に笠を戴き麻裃を着たり・鹿島 引立烏帽子を被り左右の手に刀を持つ・姫 首に瓔珞を冠り手に扇を持てり・鬼 手に拂子を持つ と次第して、幕の内より差挙げて是を舞(まわ)せり。
 序破急(じょはきゅう)の節もありて最(いと)古風なり。舞終わりて齒本(やっとう※刀)を撒(まきちら)せり。観るもの争いて是を拾えり。