山梨県南アルプス市は白根町に、上今諏訪諏訪神社(以降は今諏訪神社)があります。境内にある「由緒」の一部です。
山梨の諏訪神社にも御射山祭があり、神輿の渡御が行われたことに興味を引かれました。「諏訪大社上社でも御射山祭で渡御した神輿が神戸八幡神社で休憩する」類似点に、渡御先が「八乙女宮」とくればなおさらです。「八乙女(やおとめ)」とは8人の巫女のことで、諏訪神社(現諏訪大社)でも、明治初年までは世襲の八乙女がいたことが知られています。
「神社」ではなく「宮」なので、徐々に人格化してきた「八乙女」さんに会いたいと、まずはその位置と資料を集めることにしました。隣県とあっては「八代郡ってどこだ」ですから、ネットが頼りです。
ところが、平成の大合併で自治体の名称が変わったこともあり、「東八代・白井河原・成島」の検索ワードだけではなかなかヒットしません。ようやく見つけましたが、その特定に至るまでの経緯だけでも「一文」に値します。しかし、今回は省略しました。
周囲は田畑で人家が散在という景観の中で現れた、参道入口の大きな社号標は「表門(うわと)神社」でした。下調べの段階でわかっていたので慌てずに済みましたが、鳥居額に「八乙女宮」を見てなお安心しました。
写真右の社号標から転載しました。
由緒はわかったのですが、境内の全てに薹(とう)が立った現実の姿に落胆しました。氏子総代会などの組織は休眠中なのか、舗装された参道以外は草ボーボーの荒れた境内です。しかし、社号標と鳥居・灯籠・狛犬が新しいので、まったく見捨てられたわけではないようです。私はあくまで「よそ者立ち寄り参拝者」の立場なので、たまたま草刈り整備直前のタイミングだったとしました。
本殿は古墳の上に鎮座しているので石段を登りますが、折れた枝や葉が散らばっています。その多くが痛んでいるのは、先日通過した台風の影響ですが、下の境内ではその気配を全く感じませんでした。“標高差”5mの違いですが、独立峰のような円墳の形状とあって強く影響したのでしょう。
本殿は、一部が大きく改修されているので、その色の違いが顕著でした。
展望は参道側の一部しか利かず、蒸し暑さとカの襲来にこりて、早々に降りました。
再び拝殿の正面に立ちました。(子供の)「命名書」の半紙が、外壁の右半分に貼られているので、今でもそれなりに頼られているようです。しかし、背後の草丈が気になります。
廻縁から見上げると、向拝のシースルーになった部分に竹の垂木に葺いた萱が見えました。観察した範囲内では全てが麻紐で縛られているので、釘や針金は使っていない造りとわかります。木部には赤い彩色の跡が見られました。
甲斐國志刊行会『甲斐國志』から抜き書きしました。
「八乙女現権は俗称で、表門神社である」と言い切っています。しかし、「古墳と八乙女については明らかでない」と書いていますから、「八乙女」さんは藐焉たる存在になってしまいました。
こうなると、やはり「諏訪明神」に注目するしかありません。内容は前出の社号標と同じとなるので省きますが、表門神社の代表権を得たのか、あくまで八乙女宮・表門神社・諏訪神社のトロイカ体制なのか、これもハッキリしません。
次の「7月21日に今諏訪神社へ出かけた。往復とも仮屋を作って昼休みをとった」も、今諏訪神社の祭神も諏訪明神ですから…腑に落ちません。これは「八乙女が御射山祭の準備手伝いをするために出かけた」と(こじつけを)した方が無理がありません。
また、ここへ来る発端となった「今諏訪神社の神輿の渡御」ですが、「今諏訪神社→八乙女宮」が、ここでは「八乙女宮→今諏訪神社」になっています。何かの歯車が抜けたり逆転しているように思えるのは、私の読解力のなさでしょうか。
神社へ通ずる道が改修中です。神社前もまだ更地といった状態です。二ブロック手前に「若宮八幡神社」の標識があったので、この前に立つまでは不安でした。新しい社号標は無冠の「八幡神社」ですが、地図では「成島」なので「休憩処の成島八幡様」に間違いないでしょう。
角柱の社号標の二面に「祭神と由緒」が彫られていました。
石高に「升」が無く、おまけのような「三合」に首を傾げました。この三合を巡って、「色を付ける・付けない」の攻防戦があったとも思ってしまいます。
本殿はやや古く見えますが、拝殿と玉垣は基礎から新しく、境内の木も植え替え直後で養生中のものが見られます。道路の拡幅に合わせて大きく移転したと思われます。
鳥居と「寛保元年・當村杉野氏」と彫られた手水鉢・境内社の石祠だけが古色があるという八幡神社でした(後の調べで、本殿の建て替えは昭和37年で、拝殿と本殿の中間にある6畳大の社殿が幣殿であることを知りました)。
帰りの境内一巡で、境内社に並んで置かれた石碑に気がつきました。その形状に思い当たることがあるので読んでみると「八幡宮」です。改めて鳥居を観察すると、やはり、それは鳥居額一体型の額束でした。貫が新しいことから、古い貫が折れて落下した際に、支えを失ったこの額束も落ちたのでしょう。額の下部が破損している状態から、そんなことを推理してみました。
これで、御射山祭の神輿渡御に関わる神社の巡拝が終わったのですが、渡御は遙か昔に廃絶したこともあって、休み所の八幡神社を除く「今諏訪神社と八乙女宮」の繋がりがスッキリしません。もっとも、両社の関係を頭に置いての参拝でなければ、由緒を読んでも「そうですか」と何の疑問も湧かないでしょう。
甲斐国志刊行会編『甲斐國志』から、〔八幡宮成島村〕です。由緒と重複する部分は省略しました。
ここにも「諏訪明神が、今諏訪神社へ神幸する」と、今諏訪神社境内の由緒とは逆のことが書いてあります。どちらにしても「諏訪明神を祀る神社に諏訪明神が行く」ことになりますから、何か変です。
また、「杉葉をもって仮屋を作り」は、御射山社の「ススキで穂屋(仮屋)を作る」に通じます。ここでまた御射山祭が浮上しましたが、…引っ込めます。これは山梨の事情でしょう。御射山祭に、旧「上今諏方村・成島村・白井河原村」三村の交流イベントが習合したと言ったほうが良いのかもしれません。土地の人なら「この三村の繋がり」を明かすことができるかもしれませんが、私は、離れ過ぎて共通点がない「三社」を地図で見詰めるだけです。
自分で書いていて「まとまり(引っ込み)」がつかなくなりました。「八幡神社神主・内藤日向の子孫は現在の内藤宮司でしょうか」で終わらせることにしました。