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八代北俣諏訪神社 宮崎県東諸県郡国富町八代北俣 21.12.2

 ネットで検索した地図の「諏訪神社」をカーナビに“移植”しました。そのナビが案内してくれたのは、「対向車が来ないように」と祈る住宅街の狭い路地でした。すでに、役目を終えたナビから見放されています。そのまま進むと大通りに出てしまいました。初めに目に付いた官公庁らしき敷地に「寸借駐車」で乗り入れると、何と「都城市図書館」でした。一瞬、諏訪明神がフォローしてくれたと思ってしまいました。
 受付で「諏訪神社の住所」を口にしましたが、…首を傾げるばかりです。当然ながら資料は市で一番ですから、『都城盆地神社資料集』添付の地図を選んでくれました。ところが、先ほど通過した近辺には神社がありません。

 宮司が常駐していない神社の多くは電話がありません。電話帳に載っていても、連絡先としての宮司宅になっています。最近、「○○ナビ」などと「職業別電話帳」とも言えるサイトが検索結果の上位を占め、その情報の薄さが絞り込みの邪魔をしています。その、電話番号から「諏訪神社」を拾ってそのまま地図に載せたサイトに引っかかった、ということですが、「確認を」という但し書きがあるのでクレームは付けられません。

 紙の地図で「諏訪神社」を拾うと、…4社もあります。九州では諏訪神社の代名詞でもある「南方神社」も3社見つかりました。ここで、都城の諏訪神社は諦めて、持参した地図に諏訪神社の名前と鳥居の凡例が載っている「国富町の諏訪神社」を参拝することにしました。

 通常なら近くまで行ってから右左ですが、今回は、かなり手前から「右へ・左へ」と指示されっぱなしでした。それだけ地形と道が複雑に入り込んでいるのでしょう。道路地図を持参しても見ることがなくなったので、極端なことを言えば東西南北どの方向を目指しているのかもわからないままです。その中で、「西都原古墳群」の標識が現れ始めました。その度に誘惑に負けそうになりますが、「10年前に行ったではないか」を盾に、一路国富町を目指しました。

諏訪神社

 「駐車場」とは書いてありませんが、大きな鳥居前に駐車スペースがありトイレもありました。宮崎県では初めての諏訪神社でした。

諏訪神社
宮崎県東郡国富町八代北俣若宮
御祭神 事代主命・建御名方命・磐長姫命

御由緒 諏訪神社は村の鎮守の宮として今より千年の昔天禄二年(971)信州(長野県)諏訪神を伊佐生森田に勧請。天正十三年(1585)七月二十七日福島秀安はじめ三百名により現在地に遷宮されたと伝えられる。
 諏訪神は元来薩摩島津家の氏神で崇敬の篤い神であった。
 島津義弘は慶長五年(1600)関ヶ原の陣より細島(日向市)に上陸、佐土原を経て十月一日福島家に宿泊、諏訪社に代参神領を寄進せしめた。
 昭和十七年(1942)諏訪大明神を北俣神社と改め村社より郷社に昇格した。
 祭日に奉納のバラ踊は宮崎県民俗芸能に指定されるが、踊子(十六才より三十才の男子)たちは別火として一週間斎戒沐浴他家では飲食しないことになっている。

主な祭典 祈年祭/2月17日・春祭/4月15日・例大祭/旧暦7月27,28日・新嘗祭/11月23日

 参道脇にあった「由緒」です。諏訪では“セットになる”祭神・八坂刀売命が、九州まで来ると「磐長姫命」になり得るのかと思いましたが、これは「郷」に従うしかないでしょう。また、「バラ踊」があることを知りましたが、どんなものか想像もつきません。

八代北俣諏訪神社の狛犬」

 陶製の狛犬がありました。珍しいので、寄進者や年月日などを確認しようとしましたが見つかりません。メモ代わりに撮ったビデオ写真なので画質が今一ですが、雰囲気が良いので紹介しました。

八代北俣諏訪神社拝殿

 拝殿の賽銭箱に「丸に十文字」の島津家の家紋が見えます。今は宮崎県ですが、かつては島津領だったのでしょう。拝殿内にも「丸十」がありました。
 拝殿横から赤い瑞垣が進入禁止としているので、本殿を間近で見られません。横位置から写真を撮ろうと、境内を囲っている水路に架かった橋を渡りました。周辺は、水をモチーフにした庭園風に造ってありました。

八代北俣諏訪神社 水路を挟んで撮った本殿です。残念ながら、屋根下が囲われているので彫刻などの詳細は見えません。黒い板の部分が、例祭の時などには外される仕組みでしょうか。上写真とも、社殿の背後が高くなっているのがわかるでしょうか。上部は水平で木が見えませんから、平坦地のようです。

八代北俣諏訪神社拝殿 拝殿に向かって右にある、神社には馴染まないコンクリートの構造物です。玉垣外(境外)にあるので、由緒にある例祭時に使われる「何か」としか想像できません。左の柵の中は分水用の施設と思いましたが、意外に広い池があって驚きました。片隅には水神がありました。
 上写真に戻ると、左方に穴が見えますから、この池から放たれた水がコンクリートの溝に流れ出ることになります。そうなると、右の棚は脱衣所でしょうか。しかし、水路の浅さから、足湯ならぬ足水しか用途が考えられません。地元の人に訊くのが手っ取り早いのですが、あいにく人影もありません。神社裏の高台がどうなっているかは自分の足で調べられる、と車道に戻り、左の道をたどりました。

 タイミング良く、湧き水で何かを洗っているおばあさんがいます。洗い終わるのを待って声を掛けてみました。池と水路は「湧き水が病気に効くと評判で、毎月14日に福岡から団体がバスを連ねて水垢離に来た。主催者が亡くなってからは衰えたが、今でも日南市から毎月数人が訪れる」というものでした。謎の水路は水垢離に使う施設でした。さらに、「水は全部湧き水だが、上が畑なので(農薬が染み込むので)、今は飲むことはしない」「昔のお祭りは賑わったが、今は子供が少なくなったので寂しくなった」「神社前に自宅がある宮司に聞けば詳しいことがわかるが、霧島神宮に勤めているので昼間は不在」などと、大根を抱えたまま話してくれました。

八代北俣諏訪神社 脇の民家に断ってから踏み跡程度の斜面を登りきると、八ヶ岳の裾野にも似た高原台地状の一面に畑が広がっていました。
 諏訪神社の名が載ったネット地図には等高線がありませんから、三次元の地形は浮かび上がってきません。大きな川の存在も初めての土地では知り得ませんから、河岸段丘なのか断層の跡なのかもわかりません。
 上写真は、その斜面から撮った本殿の背後です。池があり、流れ出た水が本殿の左右を下っていることがわかりました。左の小社殿は、その位置から「諏訪神社の水神」でしょう。

 段丘のラインに沿った各地で湧水があるのかは聞きそびれました。この辺りだけとすれば、ここに諏訪神社を遷宮した理由が理解できます。それにしても、「水辺神社公園」とも言えそうな神社は初めて見ました。

県指定文化財「バラ太鼓踊」

 サイト『国富町』の〔指定文化財〕に、「バラ太鼓踊」の解説がありました。

 諏訪神社祭典の奉納踊りである。天正13年(1585)諏訪神社過去の地に遷宮された時、国家安泰・無病息災・家内安全の祈願が行われ、神前に氏子たちが集まって喜び合い、梯子その他の器具を持って踊り、神のご加護を祈願したのが、この踊りの起こりであるという。楽器は鐘6個、踊り子は、50〜60人。白浴衣に黒帯姿で背に5色の矢旗を背負い、腹にバラ太鼓を付けて歌に合わせ、円形にあるいは縦形にと隊列をかえて踊る。
・県指定無形民俗文化財(舞踊)
・【昭和37年5月15日 指定】
「がこの地」の間違いだと思うのですが…。