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湯田諏訪神社の並立鳥居 鹿児島県日置市東市来町湯田 21.12.2

鹿児島県日置市東市来町 この神社は、ネットで「鹿児島 諏訪神社」を検索する中で見つけました。また、鳥居が二基横並びに建つ「並立鳥居」の写真を見て、今回の「九州の諏訪神社巡拝」の一社に加えました。
 日置市には他にも諏訪神社があるので、鎮座地の小字から「湯田諏訪神社」としました。


湯田諏訪神社

 南九州自動車道と国道3号に挟まれた台地上に「湯之元球場」があります。その南西に隣接して諏訪神社がありました。これは現在の景観ですが、かつては、木々に覆われた丘陵を背にしていたのでしょう。

 まずは、社頭にある案内板です。明らかな間違いが二箇所あるので、自己判断で抹消して新たな字句を加えました。読みにくいので、原文を損ねない程度に句読点を加えてあります。

諏訪神社の由来
 天照大神日本国を建設統御されて出雲地方の大国主命に対し国を献上する様申し入れたが、次子建御名方命は承諾されず力比べが始まり、結局信州塩田の荘諏訪湖地方に追われてその地に止ゞまり給う。
 薩州島津の始祖忠久公は源頼朝公の庶子なり。生母は丹後の局という。初め信州塩田の荘の地頭職に任官されその後薩摩入りされ、八代久豊公のとき大国主命の次子建御名方命、八坂入姫命長子事代主命を奉祀され鳥居が二基建てられ薩摩各郷に諏訪大明神社を奉建し武勇の神として尊信せられる所以なり。
 この諏訪神社は約千年前建立され、市来郷荘社として住民の尊信を集め、島津家の信仰も厚く毎年奉幣使臣を遣わされ特に貴久公・重豪公の如きは数度にわたり治国平安子孫繁栄の祈願をされた由緒ある神社である。
 平成十八年五月吉日

 よく読むと、「この神社の由来」は、…最後の四行だけでした。

 写真では見ていましたが、現物の並立鳥居を目の前にすると、薩摩まで来たという思いもあって「ウーン」とも「フー」とも言葉にならないため息が出ました。

湯田諏訪神社「並立鳥居」

 双方とも貫(ぬき)がありませんが、いわゆる「南大隅町の並立鳥居」と同じです。柱の根巻(ねまき)も、鹿児島でよく見る六角形でした。それはいいのですが、柱の転(ころび)は、私には異常に見えるほどの末広がりです。「貫がないので徐々に広がったのだろう」と確認すると、それを差し込む穴は水平です。これで、私の見方が異常で、この鳥居は正常な形ということになりました。
 建立年を知ろうと合計で四回柱を周回しますが、右の鳥居に「奉寄進・諏訪大明神」だけが読み取れました。ところが、石段の両脇にある石碑に「貴延寶五丁巳年・諏訪大明神石鳥居・奉建立…」を読んで、鳥居が1667年に建てられたことがわかりました。

「仁王」湯田諏訪神社 老巧化で異形となった並立鳥居もそうですが、その前に陣取る阿吽の仁王像も存在感があります。これだけ胸を張っているので、「薩摩の神社では、仁王は常識」とも思ってしまいます。これを神仏習合で片付けることができますが、私には馴染めない光景です。
 吽像に近づくと、折れた片腕は足下にまとめて置かれていました。銘文がないかと、「阿」像を含めて全身をくまなく見詰めますが、かなり風化が進んでいるので、文字らしきものも確認できません。

「仁王」湯田諏訪神社 背後の鳥居脇に、四角い石碑があります。中央に「奉納建仁王像・諏訪御寶前」とあり、その周囲を漢字が埋め尽くしています。仁王の生い立ちがここに書いてあるのは間違いないのですが、読めない漢字の羅列とあって、早々に目を離しました。裏には寶永二年(1705)とあり、他の二面には寄進者名が彫られていました。
 境内には、鳥居や仁王像を含め多くの石造物があります。それぞれに限りなく興味を引かれますが、旅の身空(みそら)とあって、並立鳥居を持つ諏訪神社は「ここまで」としました。

参道は流鏑馬馬場

 諏訪神社の前から、地図では300m以上はある一直線の道が延びています。このすべてが「参道」とは思えませんが、何か気になります。

湯田諏訪神社参道 キーワードを絞って検索したら、ブログ『月と話す風−人と日置の物語』の〔8.東市来町 諏訪神社〕に鳥居の写真を見つけました。注視すると、右側の鳥居には「貫」があります。日付を見ると2007年ですから、平成19年の5月までは完形だったことがわかりました。
 さらに、「直線道路がちょうど300メートル伸びている。諏訪神社に奉納する流鏑馬が挙行された馬場の跡であると言われる」とある文に興味を持ちました。
 『国土交通省・国土画像情報』で昭和52年撮影の航空写真で確認すると、大道が左下から90度曲がって諏訪神社に向かっています。単なる直線の長い参道とも思えませんから、流鏑馬馬場であったのは事実だと思えてきました。

http://tukitokaze.at.webry.info/200705/article_26.html

「主取・曖」

 私が住む長野県は日本の真ん中に位置していますが、「国立国会図書館」があるわけでもないので、遠地の情報はネットで調べるしかありません。何回もクリックを繰り返す中で、二つの碑にあった「主取」と「曖」が、「(鹿児島ではなく)薩摩」のキーワードで「当時の役職」とまでわかりました。しかし、その先が…。
 このままでは、NHKドラマ『篤姫』の「小松帯刀墓」より諏訪神社を選択した“私のこだわり”が承知しません。最後の手段として、キーワードを多く含んだサイト『吉見一族 その系譜と時歴』の主宰者に教えを請うことにしました。以下は、その返事です。

 簡単なことしか分かりませんが、薩摩藩の郷士制度(外城制)において、各郷(外城)を支配する地頭を補佐した役職に曖(あつかい)・組頭・横目がありました(麓三役)。地頭が鹿児島城下に居住するようになってからは郷を実質的に支配しました。曖は三役のトップで、郷の行政をみました。
 主取は「ぬしどり」だと思いますが、琉球の役職のようです。主取はその役職のトップという意味合いです。
『吉見一族』管理人

 役職に琉球が絡んでくるとは、さすが鹿児島です。そうなると、鳥居の奉納は藩の上級役人がしたことになります。仁王の寄進者も苗字付きですから、「由来」にある「島津家の信仰も厚く」が実感としてわかりました。

『三国名勝図会』 24.3.5

諏方大明神廟 領主館より丑方、十二町余 日置村にあり、祭神建御名方命・事代主命 二坐共に實像、例祭七月二十三日、当日里民太鼓踊、及び当村海辺漁戸の者、舞踊を興行す、社司原口某