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会津大鎮守 諏方神社 福島県会津若松市本町 29.5.21

 福島県の守屋神社を巡拝する機会があったので、「会津若松市に諏訪神社はあるか」と検索すると、会津大鎮守の六社では最高位という「諏方神社」がありました。

諏方神社参拝 29.4.19

会津大鎮守諏方神社
額束に「諏方神社」が読める。

 桜に彩られた諏訪神社を期待したのですが、つぼみはまだ固く(右上の梢)、その上、傘をさしての参拝となりました。

鳥居の弾痕(跡)

 上写真の二ノ鳥居を部分拡大したものを用意しました。

会津大鎮守諏方神社「鳥居の弾痕」 案内板がないので私見となりますが、を戊辰(ぼしん)戦争の時に付いたとされる弾痕としました。この諏方神社の“見所”の一つなので、参拝の機会を持つ時は見落とし無きように…。
 かく言う(書いた)私ですが、事前の情報で知っていたのにもかかわらず、確認することを忘れてしまいました。そのため、「自宅で冒頭の写真を拡大したら見つかった」という紹介になりました。
 よく見ると、柱が継ぎ足しであることがわかります。また、それを連結する貫(ぬき)も、ヒビの入り具合から同時代のものであることが窺えます。鳥居の建て替えは、すべてを一新するほうが合理的です。あえて二つの古材を残す工法を採ったのは、“…とされる”弾痕であっても、戊辰戦争があったことを後世に伝えるためと考えてみみました。

会津大鎮守・諏方神社の灯籠 文化二年(1805)の銘がある灯籠が余りにも凝った造りなので、しばし、周回しながら眺めてしまいました。足元を見れば、何と、基台はカメでした。寄進したのは「大二御神楽講」ですから、講であっても財力があったのでしょう。

南宮諏訪神社「拝殿」 それを含めた二対の灯籠には神紋「立穀(たちかじ)」が彫られています。拝殿内の定紋幕にも同じものが染め抜かれていましたから、“確かに諏訪神社”となりました。


これは面白い、会津大鎮守諏方神社の由緒

 境内に由緒書きがなかったので、ネットを閲覧しました。しかし、諏訪神社の特色を打ち出したものはありません。しかたなく、『国立国会図書館デジタルコレクション』にある、会津藩地誌局編『新編会津風土記』(以下『風土記』)を参照しました。「これが大当たり」というのは後述とし、〔若松之二〕から[諏訪神社]を転載しました。

 読みやすいように分割(一部省略)し、旧字・異体字は常用漢字に、カナは平仮名に変えました。ここでは、「諏方神社」ではなく「諏訪神社」の表記です。

諏訪神社 会津六社(中略)の一にて若松の大鎮守なり。祭神は武御名方命相伝う。昔葦名氏、新宮某を征せんとて河沼郡笈川村まで行向かうに、一人の祢宜(ねぎ)(ほこ)を荷(担)いで陣前を過ぎるあり。自(みずから)(い)う。某は信州諏訪の社司なり。諏訪は軍神なればかく行逢奉(たてまつ)ること吉祥と云うべし。今日の軍必(かならず)利あらんと。
 葦名氏大に喜び、彼をして先登(せんとう)たらしむ。此日新宮氏戦わずして雌伏(しふく=降服)せしかば、其神徳に感じ、伏見院永仁二年(1294)八月当社を勧請す。

 進軍時に、鉾を捧持した諏訪(現諏訪大社)の祢宜が先導したとあります。

  小野氏・佐久氏・笠原氏三員の社家神輿に従い来る。其の時神体を奉し来れる唐櫃(からひつ)今は失うに纒(まと)いしなりとて鉄の注連(しめ)あり、其の四手(しで・紙垂)に永仁二年(1294)の紀号あり宝物の部に出ず

 「宝物の部」を参照すると、以下の説明がありました。

鉄注連 一連四手に「奉観請仕諏訪大明神 永仁二□□八月吉日 神佐久祝(みさくほうり)本願」と彫り付けあり。按ずるに、永仁二年は申午なり。又観請は勧請を誤りしなるべし。

鉄の注連 これに大なる興味を抱いても、この記述からは「鉄で作った注連(縄)」の具体的なイメージは浮かびません。


  紛らわしくなるので、本社の諏訪神社上社(現諏訪大社上社)を「本社」と表記します。

 前出の「鉾と注連」に結びつくものとして、本社の縁起『諏方大明神画詞』から、御射山祭を転載しました。

 廿六日小月廿五日、御射山登(のぼり)まし、大祝(おおほうり)神殿(ごうどの)を出て、先ず前宮・溝上の両社へ詣でて後、進発の儀式あり、神官行粧(ぎょうそう※旅装束)騎馬の行列五月会に同じ、御旗二流の外、御札十三所(※前宮の13神)神名帳銅の札を鉾に付けたりを加う、神長是をさす、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』〔諏方祭〕

 ここには、御射山御狩神事の行列に「神長が、銅板に神名を書いたものを鉾に付けて捧持した」とあります。そこで、両書の共通点を挙げてみました。

 同一のものとは言えませんが、私には、中世の御射山御狩神事が、会津の諏方神社の由緒の中に見て取れます。


 『風土記』の続きです。

 後、円融院永和元年(1375)、当社造営七月十四日柱立ありしこと諸の旧記に見ゆ。疑らくば再建のことなるべし。其の後、後奈良院天文五年(1536)四月二十六日・同七年三月二十日両度の火災に罹(かか)り、珍器重宝旧文古記多くは灰燼(かいじん)に委し履歴の詳らかなることを知り難し。

 『風土記』が編纂された時点で、三回の再建があったことがわかります。

本社 こけら葺にて三間四面南向き。(中略)神体は天羽車(あまのはぐるま)に封す。祭礼は七月二十七日・二十八日なり。二十六日を前斎とす。又五月五日に小祭あり。花会(はなのえ)と稱(とな)う。七月を大祭とす。御射山祭と稱え、茅ノ穗にて神供をかざり神前に供す。因って又穗屋(ほや)祭とも云。本社の式を模せるなり。
 往昔神輿渡御の祭と云うことあり。諏訪小路と云う所この地今詳らかならず。或謂う、今の諏訪四谷より赤井丁に出る小路なりとより神輿を担ぎ出して、黒川の町町を渡せしとぞ。後、この事久しく中絶せしか。宝永中(1704-1710)正一位の神階を請い受けしより再び旧例によりて此祭あり若松の條下と併せ見るべし。これを授光祭と稱う。

天羽車 「天羽車とは何だろう」と画像検索をしたところ、痛車(いたしゃ※アニメなどが描かれた車)がズラズラと表示します。文字検索で同時表示した「御羽車(おはぐるま)」で再検索すると、幕で囲われた神輿が表示しました。これが天羽車の説明と一致したので、ひとまずの混乱は収まりました。
 『Google』の検索エンジンが「画像としての天羽車を認知していない」ことになりますが、ここでは関係ないので…。

花会祭・御射山祭 本社でも、花会と御射山祭が盛大に行われたことが古記録に残っています。

薙鎌 一挺 勧請以来の神宝にて極めて古物なり。

薙鎌 各地の諏訪神社(分社)には、本社から授与された薙鎌が御神体や神宝として伝えられていることがあります。会津若松の諏方神社にも薙鎌が存在していることがわかりますが、戊辰戦争で社殿が焼失しているので、現在はどうでしょうか。

御神体「御射山」

会津大鎮守諏方神社社殿
平成5年に再建された諏方神社の社殿(右枠外が御射山)

 自宅へ帰ってからの情報で、本殿覆屋の後方に土壇「御神体の御射山」があることを知りました。これを載せずには、最後を締めくくることはできません。しかし、写真がないので、ネット上で見つけた写真の借用(転載許可)を考えました。ところが、『風土記』に「御射山」の説明と絵があったので、こちらを紹介しました。

御射山 本社の後土居につきて、周(まわり)数間の築山あり。信州の御射山をかたどりしと云う。注連(しめ)を廻して不入の地とす。俗に獅子山と稱(とな)える。

会津の御射山(諏方神社) 本社(本殿)の後方にある御射山が御神体というのも変ですが、御射山祭を大祭としているので、御神体の渡御など、いわゆる御射山祭に似た神事があったのかもしれません。
 ネットでは、この諏方神社の御射山祭の情報が見つからないので、現在は廃絶したと思われます。

佐藤儀八著『會津史』から[諏訪の戦]

 新たな諏方神社の史料がないかと、『国立国会図書館デジタルコレクション』を覗きました。その中に明治30年出版の『会津史 巻之九』を見つけ、第八編−第七章[容保公の籠城]から「諏訪」の名がある部分だけを転載しました。ただし、画像をOCRソフトを使ってテキスト化したものなので、誤字が混在している可能性があります。また、旧字や難読字があるので読みづらくなっていますが、その分、戦闘の激しさが伝わってきます。
 冒頭では「鳥居の弾痕」を物見遊山風に書いてしまいましたが、これを読んで、現地で手を合わせなかったことに悔いが残りました。また、読みや意味などを加える予定はなかったのですが、何か私の義務のような気がして一気に書き加えてしまいました。

(廿六諏訪の戦
 是より先き、西軍の参謀板垣退助、書を米澤藩に送りて降を勧む、是に於て、米澤藩先つ降り、重臣斎藤主計等をして兵を率きて會津に入り西軍を援(たす)けしむ、此時に當り、諸道の西軍u(ますます)若松城下に來會し、勢威大に振ふ、
 九月十四日、西軍全力を盡(つく)して四面を進撃し、機に乘して城中に突入せんと、東北面は白河口の西軍之に任じ、西南面は日光口の西軍之を受持ち、且つ小田山には殊に砲隊を増加して、城下を瞰射(かんしゃ)激撃せしめ、桂林寺町口、融通寺町口は薩長・彦根・大垣・備前の兵をして猛撃せしむ、
 城中乃(すなわ)ち四方の郭門に兵を派遣し、且つ城壁より巨砲を連發して之に應じ、融通寺町口及び桂林寺町口は青龍士中有賀惣右衛門隊・仝鈴木作右衛門隊・其他相澤平右衛門隊・小山田傳四郎隊・并深宅右衛門隊等之を固め、壘(とりで)を諏訪神社の側に築き、西軍と血戦す、
 其大小の弾丸樹林を裂き、倉庫を倒し、堡壘(ほるい)を壊(こわ)り、營所を飛ぱし、烟塵(えんじん)冥濛(まいもう)空を蔽ひ礮聲(砲声)轟然(ごうぜん)地を動かし、死屍丘をなし、流血杵を漂す(※流血漂杵)も兩軍少しも屈せず、死力を盡(つく)して激鬪す、已(すで)にして西軍の死士突貫して諏訪社の壘を衝(つ)く、
 是に於て、我兵死守搏戦(はくせん※白兵戦)僅に斥(しりぞ)く、我隊長有賀惣右衛門、堀常彦等之に死す、此時川原町口、融通寺町口の西軍の勢甚(はなは)だ猛烈を極め、郭門危急なりとの報を得、桂林寺町口なる諏訪社の我兵赴き援ひ、小山田傳四郎隊等残れる者甚だ少し、
 已にして援兵未だ至らざるに、西軍川原町口の郭門を撃破し、人吉の兵は片原柳町より、藝州の兵は深川村より、太田原の兵は材木町より、宇都宮の兵は新町及び番町より突進し、融通寺町口の郭門亦破れ、長州、大垣の兵進入して川原町口の西軍と合し、郭内本一の丁を突貫す、
 此時大町口亦(また)破れて薩・長・土の兵進入して川原町口と聯絡(連絡)し、以て本城を攻撃す、 是に於て、桂林寺町口を守れる諏訪社の小山田傳四郎隊は、四面皆敵兵に包まれ、城中に通ずべきなし、
 已にして郭内に進入せる西軍は、我背後より諏訪社に迫る、隊長小山田傳四郎、性剛猛、一隊に令して、銃を棄て、劍を揮ふ(ふるう)て敵の列中を突撃せしめ、自ら槍を揮ふて率先して進む、西軍接刄角闘(格闘)久して遂に圍(囲)を破る、傳四郎の子辰治飛丸(※飛弾)に傷つき、將に敵の獲る所とならんとす、傳四郎返戰之を援(たす)けて竟(つい)に城中に入る、
 西軍乃ち諏訪社を占領し、堡壘を増築して日新館を環撃す、日新館は諏訪社と本城の間にある大厦(家)にして、我兵の之に據(よ)るもの猶(なお)多し、城中亦毫も(※少しも)屈せず、烈射角戰、西軍をして城門に近く能(あた)はざらしむ、其兩軍の巨弾銃丸飛で驟雨よりも劇(はげ)し、此日、諏訪口に我兵の戰死せる者大畧(略)左の如し、

として、戦死者31名の名前が載っています。

「血流漂杵」

 中程にある「流血杵を漂す」ですが、中国語「血流漂杵」の日本読みとわかりました。

【血流漂杵(けつりゅうひょうしょ)】(血が流れて川となり洗濯用のたたき棒が流れるほどである→)戦争でおびただしい血が流れる。
日中辞典・中日辞典『weblio』
血と杵がどうしても結びつかず、つい調べてしまいました。