高森町史編纂委員会『高森町史』〔神社〕から、[萩山神社]の一部を転載しました。
萩山神社には、駐車場が用意されていないことが濃厚になりました。取りあえず鳥居前のスペースに車を突っ込んでみましたが、降りて眺めれば、やはり罰当(ばちあ)たりの構図です。しかたなく、周囲の状況を見定めながら、先に御射山社へ行ってみようということになりました。
カーナビに導かれて(どこをどう走っているのかわからぬまま)、中央自動車道や「南信州フルーツライン」とある伊那南部広域農道が走っている台地上に出ました。ところが、そのナビは広い舗装道路を無視し、果樹園の中に延びる私道とも思える1.5車線幅の道を指示します。「何を好んで」と思いましたが、後に、ナビの地図が古いことが判明しました。「長野県南信農業試験場」が拡充する中で、新設の道路が整備されたのでしょう。
案内柱「高森町無形民俗文化財 萩山神社御射山祭」の説明文をメモ代わりに撮ったものですが、この景観に「左方の林は台地上の縁(へり)に連なっています」と説明を入れました。
とてもそのようには見えませんが、地図の等高線では、林の向こうは急傾斜地になっています。ということは、河岸段丘の上にあるのが御射山社ということになります。
記念に植えたという榊の照葉樹が、寒冷な諏訪と違う社叢を作っています。「その奥に鎮座しているのが御射山社」と言ってもただの仮屋ですが、この写真では、その背後が白飛びしています。その原因は、八月終わりの日射を反射させている「JAみなみ信州市田柿工房」の大きな壁です。御射山社にはふさわしくない景観ですが、これも時代の移り変わりと言うしかありません。
後一ヵ月という寿命を持つ、ススキで葺かれた御射山社です。傾いている幣帛ですが、その白さはまだ保っています。
案内柱で9月27日が御射山祭と知ったので、その日に再拝しようと、今日は早々に背を向けました。何しろ、腕はおろか、指先にもたかる蚊が気になります。
萩山神社へ戻る途中に、「井伊直虎ゆかりの地」とある幟が立った「道の駅」がありました。駐車場に使えそうと引き返してみれば「時の駅」で、高森町歴史民俗資料館の(意味不明ですが)別称でした。元々「資料館で萩山神社の史料が閲覧できるはず」と予定に入れていたので、タイミングよく叶ったことになりました。
壁に、高森町の地図が展示してあります。萩山神社と御射山社の位置関係に目をやると、薙鎌ならぬ「鎌薙」が…。「御射山」もあるので、なんかこう、一人で盛り上がってしまいました。
こうなると、暑さも何のその、現地へ行ってみようという食指が動きます。ところが、凡例を確認すると、…今は実体が無い古墳でした。
次に広範囲で眺めると、萩山神社の参道から始まる傾斜が、典型的な天竜川の河岸段丘であることがわかります。また、当時の草木がどのような状況であったかは知る由もありませんが、前方後円墳にも似た方形の広い台地の両脇を刻む深い谷沢を利用すれば、諏訪の古文献に出る狩に最適な地形であることに気が付きました。
その時は二言三言しか思い出せなかったので、武居正弘著『年内神事次第旧記』から、「千鹿頭神以来の伝承を踏まえた祝言である」と注釈があるその一部を転載しました。ここでは、神が行う狩なので「弦が無い弓と矢尻がない矢」となります。
9月9日に神事が行われた御射山社です。見学することはできませんでしたが、後日の10月1日に写真を撮ってきました。