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比田井諏訪神社と彦狭島王陵 佐久市共和 30.12.15

 小字「比田井(ひだい)」に鎮座しているので、「比田井諏訪神社」としました。「諏訪神社」は、長野県神社庁の表記です。

 長野県『信州デジ蔵』で『彦狭島王御陵山方位全図』を見たことで、彦狭島王(ひこさしまおう)の古墳に関心を持ちました。「諏訪神社の境内にある」ということなので、「これは必見なり」と調べれば、牧布施村(現望月町)の土屋直右衛門が明治5年に記した『彦狭島王陵春日穴咋邑之考(写)』に繋がりました。ここでは、彦狭島王については触れず、祟りの部分のみを転載しました。

一、二百年以前の由、少女幼児負い春摘み草に出、王塚に登り二人共即死致し…

 「子どもを相手に何と理不尽な」と思える祟りですが、産土神の建御名方命が守ることができなかったほど彦狭島王の祟りが凄まじかったことになります。

一、元禄年中春日村の枝郷下の宮依田某持馬、五月田の代掻候節放して王城へ駆上り其の儘斃(たおれ)し候由…

一、大宮大殿神社御祭日は四月…農繁の時節に付神酒等も相減し形斗りの祭礼致し…村中変災時疫䔍頻り有之、極困窮に陥り…

一、…其塚の上へ登れば即死致し候段叱り候に付、右の者驚き竹を捨て逃去候処、晴天俄に曇り大風大雨甚だしく…

 大人の場合は、天候の急変だけで済んだとしています。その差は何なんだとツッコミを入れたいところですが、諸祟りの根源は書いてありません。

比田井諏訪神社参拝 30.9.17


諏訪神社 畦の高低から、なだらかな傾斜地であることがわかります。その中で、彦狭島王陵がある諏訪神社として、遠目にも墳丘と確認できます。
 額束に「諏方・大宮両宮」を読んでから、まずは古墳の前に立ちました。

諏訪神社

 墳丘の全域が確認できたことから、彦狭島王陵は、諏訪神社の境内にある小さな円墳と理解しました。案内柱は「彦狭島王陵墓」と書いていますが、あくまで伝承なので、学術的には「王塚古墳」のようです。

彦狭島王陵

諏訪神社本殿 拝殿の大棟に神紋「立ち梶の葉」を確認し、扉の格子から内部を観察しました。しかし、本殿の扉が見えるだけで、その造作はわかりません。
 今思えば左右を白幕で覆ってあるのが不自然ですが、参拝時にはそういうものとして終わりました。

「諏方・大宮両宮」

諏方大宮両宮 鳥居額の社号にスッキリしないものを感じていましたが、『望月町誌』を読んで、諏訪社と大宮社の合祀社と知りました。
 直接には関係ありませんが、佐久の神社は「両部鳥居」が全盛です。諏訪から雨境峠を越えて参拝するとその際立った違いに気付かされます。


諏訪大宮社

 比田井には「彦狭島王」の伝承のある王塚古墳があり、その脇に神社がある。
 この神社の名称は鳥居の額や本殿内にある幣帛の入物(箱)の蓋に「太宮神社(太の字)」と書かれている。
 鳥居を入りすぐ左(北側)に木造の社が三社合併されており、またその北方には六基の石祠が東面して並んでいる。
 拝殿はどっしりとした茅葺で白壁の建物・その奥に瓦葺の履屋があり、なかに二つの流造社殿がある。

A 諏訪大宮社 (一間社流造)
 板葺の大きな一間社、母屋と向拝柱の間は板壁で囲われている(最近の処置)。…(建築様式は略)…
 本殿内の棟札には 「元禄二(1689) 天下安全武軍長久 十月十九日 比田井村・矢神村・片倉村・大谷地新町村諸大小十氏」とある。さらに「諏防明神宮一宇請願成就所……」とあり、これにより諏訪社であることがわかる。
 なお、本殿内に桐の箱(方四一cm、蓋に「宝物」とある)には陽石棒(五つに折れ、元部径一七cm、復長で五〇cm)があった。

B 太宮(社) 一間社流造(仮宮)
 諏訪社の左(東側)にある本殿よりやや小さな流造の社であるが、屋根や脇障子などの痛みがはげしい。内部の宝物の文字からこちらが「太宮」だと判明したが、本殿の横に合殿したものか、あるいは仮宮としていたものであろう。…(建築様式は略)…一七世紀末と推定される。
 内部にあった「太宮の宝物」の箱内には、やはり陽石棒(長さ一四cmの先端部のみ)が納められていた。

望月町誌編纂委員会『望月町誌 第四巻近世編』〔神社建築〕

 両社の宝物が「石棒」とは奇異に感じますが、地元の意向なので認めるしかありません。


『信州デジ蔵』から『彦狭島王御陵山方位全図』

 『望月町誌』では「大宮社は、合殿または(諏訪社の)仮宮」と書いていますが、この古絵図から、古墳脇の「大宮大殿」を諏訪社に相殿としたものとわかります。
 また、境内の隅にある民家が、諏訪神社の旧神官宅と理解できました。この景観ですから、古墳時代から続いた神官=墓守説も頷けます。

謎の祠

境内社

 拝殿脇に石祠が並んでいる中に、異質の入母屋造があることに気が付きました。諏訪で言う「藍塔(らんとう)」ではないかと覗き込めば、…線刻された板が確認できました。「藍塔は先祖供養の家形石塔で、中に夫婦像を置くのが基本」だそうです。それに当てはめれば、線刻は対の五輪塔のようにも見えます。
 一つ不思議なのが、屋根に彫られた幾条もの「スジ」です。何かの御利益を求めて削り取った跡と言った方が現実的かもしれません。明治の混乱期に間違って“混入”してしまった公算が大きいのですが、とりあえず謎の祠としました。