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北宮諏方神社 福島県喜多方市諏訪町 29.5.28

 「会津 諏訪神社」で検索すると、喜多方市に「諏方神社」がありました。(南部に鎮座する)会津若松市の諏方神社に対して「北宮と呼ばれる」とあるので、北宮諏方神社と表記しました。

北宮諏方神社参拝 29.4.19

北宮諏方神社参道(喜多方市)
社号標「郷社北宮諏方神社」がある参道

 社殿をベストポジションで撮りたいのですが、正面からの風雨では、カメラを向けることを躊躇(ちゅうちょ)してしまいます。それが弱まった間隙を突いて、左手で傘を付き出し右手でシャッターを押しました。
 結果として、それらは、すべてボツとなりました。というのも、諏方神社周辺を散策し、喜多方ラーメンを食べ終わって戻った頃には日が射してきたからです。以下の二枚は、撮り直した北宮諏方神社の社殿です。

北宮諏方神社拝殿

喜多方市「北宮諏方神社本殿」 上写真の二つの社殿を結ぶ太鼓橋の向こうは、立入禁止になっています。柵の手前から本殿を眺めると、渡殿の軒下に雪の山がありました。
 屋根から落下して固く締まったものが、今に残っているのでしょう。私が住む長野県諏訪郡の標高千メートル内外に位置する原村であってもとっくに消え去っていたので、何か不思議に映りました。

喜多方諏方神社 拝殿前の提灯や賽銭箱に、神紋「立穀(たちかじ)」があります。大棟にも金色の立穀が仰げますが、ここでは、鬼板にある梶(穀)の一枚葉を載せました。
 その拝殿の千木は外削ぎの置千木ですが、本殿は内削ぎでした。その違いに意味があるのか無いのか、何の知識も持ち合わせていない私ですから憶測するのは止めました。

喜多方諏方神社 笠にはカエルがへばりつき、基台はカメという凝った灯籠です。直前に会津若松市の諏方神社を参拝していたので、そこにあった灯籠と同一の意匠とわかりました。銘に「昭和三年御大典記念」とあるので、同じ諏訪神社として、同じデザインにして新造したのでしょう。道向こうの家並みが蔵であれば、絵になったのですが…。
 蔵の町・ラーメンの町であっても、ゆっくりしてはいられません。本来の目的地である守屋神社へ向かいました。

北宮諏方神社について

 境内にあった由緒書きを撮り損ねたので、『国立国会図書館デジタルコレクション』にある、会津藩地誌局編『新編会津風土記』を参照しました。しかし、喜多方市が、江戸時代では何郡・何村に当たるのかわかりません。苦労して見つけたのが、〔陸奥国耶麻郡(やまぐん)之十〕[小荒井組 小荒井村]でした。

諏訪神社 境内東西百十四間・南北十八間免除地 村中にあり、永和元年(1375)五月二十七日信濃国諏訪郡より勧請せり、天文七年(1538)七月葦名盛氏再興し社領千苅の田を寄附す、天正己丑(1589)の兵火に炎上し神器古文書の類燒失す、慶長三年(1598)上杉景勝此国を領せる時諸役免除の證文を附せり、今はなし、此社昔は此より三十間計北にあり、寛永十八年(1648)今の地に移せりと云、又郭内の諏訪神社に對して北宮とも稱(とな)えしと云、祭日六月二十七日、又社内に市神の木像二体あり、毎年正月十二日村中に仮宮を営(いとなみ)て祭をなす

鳥居 両柱の間六尺・本社 一間四面南向・幣殿 五間に二間・拝殿 六間に三間半・神楽殿 二間に一間・神供所 二間に一間半、

宝物 不動画像一幅・鳥羽院宸筆・一荷(別当宗好法印所持の物なりと云、中に破れたる頭甲(ずこう)鎖甲一領あり)

北宮諏方神社の例祭日

 ここに、「祭日は六月二十七日」とあります。“諏訪”神社なら例大祭は旧暦の7月27日が常道だと思いますが、私が鼻息を荒くしても、会津藩の「正史」が揺るぐことはないでしょう。
 ネットで調べると、現在の例祭は「8月2・3日」に行われています。屋台の曳行だけで御射山(みさやま)に関わるものが見られないので、諏訪神社の祭事から離れた庶民が楽しむ祭りになっているようです。

北宮諏方神社の祭神

喜多方 諏方神社 鳥居脇にある案内板は、主祭神「建御名方命・八坂刀売命」、相殿に市神様として「春日大神・住吉大神・大市比売命」を書いています。
 参拝時には「市神様」をどう捉えていいのかわからなかったのですが、辞書では「市場の守護をする神」とあり、〔諏訪神社〕では「社宝に市神の木像が二体」と書いているので、その関係が納得できました。

喜多方市(旧小荒井村)では大きな市が立っていた

 喜多方市の語源は「北方」ではないかと調べたら、サイト『福島県』の〔喜多方の発展の歴史〕に、市神様との関係が窺われる文があったので抜粋して転載しました。

※http://www.pref.fukushima.lg.jp/download/1/41350rekisi02-6.pdf
蒲生氏郷(がもううじさと)は、城と城下町の整備を命じ、(中略)年貢を半石半米(半分は米で半分は永楽銭)で納めるため、生産物を市場で売る必要が生じ、城下町以外の農村の定期市として、小荒井・小田付などの市が保護育成された

 「これは何かあるぞ」と、改めて『新編会津風土記』の[小荒井組 小荒井村]を読んでみました。

加藤氏の時、毎月二日・十二日・二十七日・七月七日を市日とし、相継ぎて今に至りしと云、此日は四方の諸村より群集して交易をなす、中にも正月十二日は市神の假(仮)屋をたて、年若き者多く郷頭の家前に集まり、二組となり屋上より投ずる米俵を争う、古文書三通郷頭手代木藤左衛門が家に蔵(きす)む、其文如左、

 これが〔諏訪神社〕の記述と重なりました。つまり、二つの記述から、「市場に仮宮を建て、北宮諏方神社から市神を遷座させてお祭り日とした」となります。
 喜多方市民ではなく福島県民でもない私ですが、これで、北宮諏方神社の参拝記をうまくまとめることができました。