「三密」になるのはあり得ない(私の)神社巡りですが、このところのコロナ禍で遠のいていました。9月も末ともなれば、どこにも行かずに過ぎ去ってしまった今年の春と夏ですが、それを少しでも取り戻すべく、以前より気になっていた御射山社を自分の目で確認することにしました。
〔1 大宮神社〕から、御射山祭の部分を抜き書きしました。
発刊から25年も経過しています。「猪鹿の頭」は無理としても、今でも御射祭が行われているのか心配です。
県道沿いに一之鳥居がありました。順にくぐって境内に立つと壇上の左方に御仮屋が見え、ひとまずは安心しました。
社殿額「諏訪大神・八幡大神」を掲げた本社への挨拶もそこそこに、まずは御射山社です。境内社4棟を右に見ながらその前に立つと、穂屋は質素な片屋根でした。
石組み内が社地ということになりますが、その中央部に幣帛が立っています。『村誌』の通りならこの前に猪鹿が供えられたことになりますが、平成の世ではそれを見ることはできないでしょう。
本社の本殿で、『豊丘村誌』では「祭神は建御名方命・伊豆早雄命・中県命・誉田別命」とあります。
定紋幕の左側に「立梶」が複数並んでいるのがわかりますから、右が八幡社の神紋ということになります。ただし、詳細は確認できません。
境内社の覆屋上部に注目してください。初めは“そのような造り”と見ていましたが、それは、軒下一面に掛けられた木札と気が付きました。その中にかろうじて「◯圓・名前」が読めるものがあり、その寄付者の札を並べたものとわかりました。
社殿はいずれも立派な造りなので、かつての旧村の鎮守社として鎮座していたことがわかります。携えた『村誌』には「当社中央殿は八王子神社より、南殿は原宮神社より、北殿は十二天社よりそれぞれ移転安置したものである」とありますが、現実には一社多いので、当てはまりません。
その一社に「立梶」があるのを見つけ、これは「諏訪社」と確定しました(上写真)。「諏訪社=原宮神社(過渡期の御射山社)」ですから「南殿は原宮神社」と重なります。
これで、説明からあふれこぼれた恰好になった神明造の社殿は、本社に合祀されるまでの八幡神社「本殿」ということに落ち着きました。
この辺りの旧村は、諏訪神社上社の御頭奉仕「五月会御頭」や「花会御頭」に名を連ねる古村です。しかし、これを書き始めると主題の「御射山社」が薄れるので、ここで書き納めとしました。