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三成諏訪神社 島根県奥出雲町三成諏訪原 29.6.20

三成(みなり)諏訪神社参拝 29.6.4

三成諏訪神社 三成諏訪神社は斐伊川に沿った国道脇にあり、広い路側帯もあるので、その前に横付けできました。
 実は、車を止める前から気が付いていましたが、周囲に人家がありません。降りてから対岸に目をやると、見上げた段丘上には家々が散在しています。村の鎮守社とは異なる立地に戸惑いを覚えながら鳥居をくぐりました。

三成諏訪神社

 現地で読むには文字が多過ぎますが、巡拝記で紹介するには程よい長さの案内板(由緒書)があります。目に付いたキーワード関連を拾い読みしましたが、白紙の知識でもよくわかりました。その『諏訪神社』から、主祭神が建御名方命であることを確認し、〔社歴〕のみを抜粋しました。

 諏訪神社は、「仁多郡村誌」等によれば、三沢氏第十代・為理か永正七年(一五一〇年)にこの地に創建したとある。当時の三沢氏にとっては、横田・藤ヶ瀬城築城や尼子氏等との戦乱に明け暮れる時代であった。主祭神は武神、農耕神とある。十四世紀初頭に信州伊那から新補地頭として下向した三沢氏が、信州・諏訪大社に祈願し分霊を受け、要害山(三沢城)の守護神として三沢氏累代が崇敬したと言われる。今も要害山には諏訪明神が鎮座した跡が残る。
 当神社は、要害山を基点にして北東方向に位置することから、表鬼門として建立されたと考えられる。また、神社の背後地にある「武者山(みさやま)」は、諏訪大社と不可分の「御射山」を示す由緒ある地名である。

御射山は諏訪大社と深い関係にあり、領主の鷹狩りや御曹子が元服を前に鹿を射止める等の神事を行う所と伝えられる。

 江戸後期の古絵図には“諏訪大明神”と記され、また、郷土史料では、「明治四年に村社に列せられ、社氏子七十八戸、境内四十坪、社地中に老樹あり、御神体は青石なり、云々」とある。
 昭和四年十月三成八幡宮に合祀されたが、のち旧社地に諏訪神社の復興を願つた暮地集落の住民により、昭和三十三年秋、長野県・諏訪大社から分霊を勧請して元の社地に再建した。以来、氏神“諏訪さん”として崇拝され、今日に至る。

 初めに感じた違和感は、「この神社は、三沢城の表鬼門として建立された」という創建由来にありました。

三成諏訪神社本殿 現在は、参集所(社務所)は別として、この「見世棚造」の本殿が一棟だけという簡素な諏訪神社です。
 このコンパクトさはネットの写真で知っていましたから、意外性が用意されていない坦々とした参拝になりました。

三成諏訪神社 台座に大きな石が埋め込んであります。賽銭箱が“乗っかって”いますが、“特別なもの”として写真に残しました。

 帰り際に由緒を斜め読みすると、背後の山を「武者山(みさやま)」と書いています。次の諏訪神社が待っていますが、“三成の御射山”を見過ごすわけにはいきません。国道の左右を眺めると、左方に橋が見えました。

三成諏訪神社と斐伊川
八岐大蛇伝説が残る斐伊川

 対岸に渡りますが、写真のように鳥居の笠木がわずかに覗いているだけです。振り返れば山裾は棚田で、その最上部を今しもJR木次線の列車がゆっくりと通り過ぎ、そのラインまで上っていく道が見えます。ただし、さすがに、そこまで行って諏訪神社と武者山を俯瞰する写真を撮るほど余裕はありません。次は、鴨倉にある建御名方神社です。

 写真で持ち帰った〔社歴〕を自宅で読み直して、この神社の現状がわかりました。つまり、いったん「三成八幡宮」に合祀したものを分祀したのではなく、新たに諏訪大社から勧請したという経緯がありました。これで、神社の簡素さが理解できました。
 地元ならではの事情があったことが窺えますが、それにしても、鳥居一つ建てるのも大変な負担になります。よくぞ、三成の氏子の方々が再興したものと驚きました。出雲大社の影響が大きい地で、再び“諏訪さん”を蘇らせた皆さんに(心の中で)エールを送りました。

 『国立国会図書館デジタルコレクション』で調べたら、仁多郡三成村尋常高等小学校(著)『三成村誌』がありました。出版年が昭和9年ですから、再興前の現況となります。

諏訪神社
 現在は八幡宮に合併せらる。永正七年飯島為理造作の棟札あり。祭日は七月二十七日なりしと、傳説に曰く、三澤氏信濃国より出陣の際武運を信州諏訪神社に祈り一石を受け来り神社の位置に安置せしものという。故に諏訪神社の神体は青石なりと傳う。

 ここに、(現)長野県諏訪大社から、青石を受領して持ち帰ったとあります。実は、自宅で社歴を読んで、基台にある石が「御神体」と考えましたが、青石は祠の中に安置してあると理解しました。あの大きさでは、持ち帰るのは困難だからです。