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諏訪の水穴と万年大夫 茨城県日立市諏訪町大平田 29.5.7

諏訪の水穴
諏訪の水穴

 「↑諏訪の水穴」と紹介しましたが、「何のことやら」と戸惑っている顔が想像できます。
 そこで、現地にあった「環境を守る日立市民会議・諏訪の水穴復元記念協賛会」が設置した案内板を転載しました。お急ぎの方は、冒頭の三行を読むだけで理解できます。

 諏訪の水穴(神仙洞)は、ここ諏訪町大平田(たいへいだ)にあり、普賢ヶ嶽(ふげんがたけ)の麓、緑豊かな木々に覆われた清水湧き出る鍾乳洞です。
 この水穴には、遠い昔、信州(長野県)諏訪大社の御分霊をこの諏訪の地に祀られた神官万年大夫 藤原高利夫妻が自分の木像を造り諏訪神社に納めて水穴に入り、再び帰らなかったという伝説があります。
 また水戸黄門 徳川光圀公もこの水穴に入り、洞の狭くなった三の戸に「これから奥には入らぬように」と記されたとも伝えられています。
 その後、水戸藩の学者や文人が訪れ、名勝として紹介してくれましたので、広く知られるようになりました。
 ところが、戦後、下流に防災ダムが設置され、水穴は砂利で埋没し、三十年もの間、昔の面影を失っておりました。この間、地元の強い復元運動が起り、県や市ならびに関係団体のご協力で、このたび、水穴は立派に昔の姿に甦りました。
 この価値ある天然記念物、史跡名勝としての「諏訪の水穴」を大切に守っていくことは私たちの責務です。水穴見学の際は、充分安全に注意し、汚したり傷つけたりすることのないようお願いいたします。

 “諏訪”の水穴ですから、やはり諏訪神社が絡んでいます。地図を用意して、水穴と諏訪神社の位置関係を表してみました。


諏訪の水穴へ 29.4.19

 常磐自動車道日立中央PAのコンビニでコーヒーとパンの朝食を済ませ、同ICから、通勤渋滞の車列に加わって諏訪の水穴に向かいました。

諏訪の水穴
厳島神社space諏訪の水穴

 この写真と案内板の「史跡名勝」からは、今年の夏はここで川遊びでもと思ってしまいます。ところが、すぐ上が「日立セメント大平田鉱山」で、上空の索道には石灰石を積んだゴンドラが行き交っています。私は、深山幽谷にある鍾乳洞のつもりで来ましたから、戸惑いました。

諏訪の水穴 気を取り直し、ジーンズをたくし上げてサンダルに履き替えました。静々と足を沈めますが一瞬の冷たさで、今日の陽気では気になりません。
 しかし、入口から5mが限界でした。全身を水中に浸さなければ通過できないその先を、フラッシュで撮っで引き返しました。

上諏訪神社 日立市西成沢町

 帰りの道順で、先に上諏訪神社へ寄りました。道脇に鳥居があり社号標に「上諏訪神社」と読めますが、狭い道とあって路駐ができません。すぐ先に戻る方向で車道があり、切り返して登り詰めると、広い駐車場とその山際に鳥居がありました。

上諏訪神社(日立市西成沢町)

上諏訪神社本殿(日立市西成沢町) まずは石段の参道を車道まで降り、一ノ鳥居をくぐり直し、戻った二ノ鳥居から本殿前に立つという手順を踏みました。昨日とは打って変わった初夏の陽気に、着た切り雀のシャツがまた重くなりました。
 ここからは「指の先に下諏訪神社が一望」と言いたいところですが、小学校が確認できただけでした。

上諏訪神社「神紋」 「何か諏訪神社の証しを」と探すと、本殿の屋根と覆屋との狭い隙間に何か見えます。望遠鏡代わりのカメラでズームアップすると、大棟に銅板を打ち出した神紋が横並びに三枚あるのがわかりました。
 下部が隠れていますが、“上”諏訪神社なので、本社である諏訪大社上社の神紋「諏訪梶」と思いました。しかし、何回か見直す中で、梶(穀)の一枚葉である「立穀(たちかじ)」と落ち着きました。


 上諏訪神社には由緒書がないので、ネットで調べてみました。『Hitachi Media Clubのホームページ』内の〔日立文化財巡り〕の[諏訪神社]には、「由緒沿華は社伝によりますと、建長2年(1250)信州諏訪(長野県諏訪市)の諏訪神社に仕えていた藤原高利(万年太夫と称された)が一夜霊夢により、上諏訪明神の分霊を当所上諏訪に、下諏訪の分霊を当所下諏訪字台にそれぞれ勧請したと伝えられております」とありました。

※ http://www.maroon.dti.ne.jp/hmc/sise-11.htm

 「なるほど」という勧請由来ですが、他のblogでは「上諏訪神社の祭神は、神武天皇の妃・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」とする既述を複数見かけます。こちらの情報では「祭神が入れ替わっている」ことになりますが、名称が上諏訪神社のままというのが解せません。

下諏訪神社(諏訪第二宮) 日立市諏訪町

 諏訪の水穴に行く往路で見かけた「万年大夫が夫婦の木像を造って納めた」下諏訪神社を、改めて参拝しました。

下諏訪神社(諏訪第二宮)

下諏訪神社「神紋」 唐破風大棟の鬼板に、諏訪大社の分社に多い神紋「立穀」が確認できました。ところが、目を戻した掲額は「諏訪第二宮」を謳っています。地図にある「下諏訪神社」のつもりで来ましたから、“No.2”の意味合いがある文字に戸惑いました。拝殿内の掲額も同じでした。

 こうなると、先ほど参拝した上諏訪神社が「第一宮」となります。そちらは小さな本殿のみと言う規模でしたが、駐車場がかなり広かったので、それなりの格式があるのかもしれません。やはり、他人(ひと)ごととはいえ、この地では二つの諏訪神社をどう“認識している”のかが気になりました。


 自宅で地図を眺めると、両社は鮎川で距てられています。その立地から、かつては二つの村があり、それぞれが勧請した諏訪神社の可能性が出てきました。ネットで調べると、上諏訪神社は旧成沢村で、下諏訪神社は諏訪村でした。


諏訪第二宮(下諏訪神社)本殿 本殿の写真を撮ってから境内を下ると、「万年大夫夫婦坐像」の収蔵庫があります。しかし、宮司不在の神社とあっては胎内像の拝観は叶いません。社頭の案内板では「光圀が作らせた万年大夫夫婦坐像は日立市郷土博物館に常設展示」とあるので、そちらへ向かいました。

日立市郷土博物館 日立市宮田町

茨城県指定文化財「木造 万年大夫夫婦坐像(胎内像含)」

 ガラスケースに収まった二組の木像を見て、胎内像もここに収蔵展示してあることがわかりました。

 諏訪神社と万年大夫
 諏訪町にある諏訪神社は、社伝によると建長2年(1250)信濃国の神人(じにん)藤原高利(万年大夫)が信州諏訪大社の分霊を移し、諏訪第二宮としたことに始まる。万年大夫は晩年自らの夫婦像を彫って社に納め、信濃国に通じているという水穴に入り戻らなかったという。
 元禄3年(1690)水戸藩主徳川光圀はその像が傷んでいるため新像を造らせ、旧像をその胎内に納めさせた。なお旧像は様式の上では室町期の様相をもつ。

 説明を読むと、「第二宮」は、本社の諏訪大社に“次ぐ”という意味で、万年大夫夫妻が水穴に入ったのは今で言う「通底伝説」で、本社の諏訪大社へ行こうとしたことがわかります。

下諏訪神社「本殿」 受付で「展示物の撮影は自由」と確認しましたが、いざカメラを向けると、ガラスに照明光が映り込んでいます(左写真)。私の性分では「これでよし」とすることができないので、個別に撮ったものを以下に紹介しました。
 説明文は、サイト『茨城県教育委員会』の〔いばらきの文化財〕から転載したものです。

万年大夫
光圀奉納の夫像は像高60cm・坐幅49cmで、婦像は像高51cm・坐幅49cmです。2体とも一木造(いちぼくづくり)、櫟(いちい)材、鎌倉時代の着衣の像です。
万年大夫
胎内の夫像は高27.5cm・坐幅21.5cm、同婦像は、高23.5cm・坐幅19.0cmです。2体とも一木造、櫟材と思われます。像は鎌倉時代の着衣で、夫像は神職の服装、婦像は打掛け姿です。かなり傷みがあったのを、県指定後、京都の公益財団法人美術院国宝修理所で補修されました。

万年大夫夫婦坐像由緒 大夫像の背中に刻銘があり、パネルに「常陸多珂郡諏訪神祠有万年大夫藤原高利夫婦像/年久朽弊令新命工改造二像/蔵故像於其體中/以垂将来/元禄三年歳次庚午十月吉日/水戸侯源光圀識」と書いています。漢文は得意という方は読み下してください。
 書き下し文ではありませんが、その続きに「常陸国多賀郡諏訪祠に、万年大夫藤原高利夫婦像があり、年月がたち腐っていたので、新たに工に命じ二像を造り、旧像はその体中に納めた、もって将来に伝えるものである」と説明がありました。

常陸名所図屏風

常陸名所図屏風「諏訪の水穴」
諏訪の水穴と風穴(

 二階のフロアーに、常陸国の名所が描かれた「常陸名所図屏風」が展示してありました。
 諏訪の水穴を描いた場所に「風穴」と説明があるのを見て、もう少し登っていればと悔やみました。
 実は、その上に続く小道があったので「どこへ続くのだろう」と50mばかり登りましたが、先行きが見えないので引き返していました。「まー、史料に載る風穴は、現在は無風穴の場合が多いからなー」と、限られた時間では適切な判断だったとしました。