「諏訪の水穴」と紹介しましたが、「何のことやら」と戸惑っている顔が想像できます。
そこで、現地にあった「環境を守る日立市民会議・諏訪の水穴復元記念協賛会」が設置した案内板を転載しました。お急ぎの方は、冒頭の三行を読むだけで理解できます。
“諏訪”の水穴ですから、やはり諏訪神社が絡んでいます。衛星写真を用意して、水穴と諏訪神社の位置関係を表してみました。
常磐自動車道日立中央PAのコンビニでコーヒーとパンの朝食を済ませ、同ICから、通勤渋滞の車列に加わって諏訪の水穴に向かいました。
この写真と案内板の「史跡名勝」からは、今年の夏はここで川遊びでもと思ってしまいます。ところが、すぐ上が「日立セメント大平田鉱山」で、上空の索道には石灰石を積んだゴンドラが行き交っています。私は、深山幽谷にある鍾乳洞のつもりで来ましたから、戸惑いました。
気を取り直し、ジーンズをたくし上げてサンダルに履き替えました。静々と足を沈めますが一瞬の冷たさで、今日の陽気では気になりません。
しかし、入口から5mが限界でした。全身を水中に浸さなければ通過できないその先を、フラッシュで撮っで引き返しました。
帰りの道順で、先に上諏訪神社へ寄りました。道脇に鳥居があり社号標に「上諏訪神社」と読めますが、狭い道とあって路駐ができません。すぐ先に戻る方向で車道があり、切り返して登り詰めると、広い駐車場とその山際に鳥居がありました。
まずは石段の参道を車道まで降り、一ノ鳥居をくぐり直し、戻った二ノ鳥居から本殿前に立つという手順を踏みました。昨日とは打って変わった初夏の陽気に、着た切り雀のシャツがまた重くなりました。
ここからは「指の先に下諏訪神社が一望」と言いたいところですが、小学校が確認できただけでした。
「何か諏訪神社の証しを」と探すと、本殿の屋根と覆屋との狭い隙間に何か見えます。望遠鏡代わりのカメラでズームアップすると、大棟に銅板を打ち出した神紋が横並びに三枚あるのがわかりました。
下部が隠れていますが、“上”諏訪神社なので、本社である諏訪大社上社の神紋「諏訪梶」と思いました。しかし、何回か見直す中で、梶の一枚葉である「立ち梶の葉」と落ち着きました。
上諏訪神社には由緒書がありません。ネットで調べると、『Hitachi Media Clubのホームページ』〔日立文化財巡り〕の[諏訪神社]に、「由緒沿華は社伝によりますと、建長2年(1250)信州諏訪(長野県諏訪市)の諏訪神社に仕えていた藤原高利(万年太夫と称された)が一夜霊夢により、上諏訪明神の分霊を当所上諏訪に、下諏訪の分霊を当所下諏訪字台にそれぞれ勧請したと伝えられております」とありました。
「なるほど」という勧請由来ですが、他のblogでは「上諏訪神社の祭神は、神武天皇の妃・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」とする記述が複数あります。「諏訪神社なのになぜ?」という疑問が湧きますが、いつの時代にか祭神が入れ替わったのかもしれません。
諏訪の水穴に行く往路で見かけた「万年大夫が夫婦の木像を造って納めた」下諏訪神社を、改めて参拝しました。
唐破風大棟の鬼板に、諏訪大社の分社に多い神紋「立ち梶の葉」が確認できました。ところが、目を戻した掲額は「諏訪第二宮」を謳っています。地図にある「下諏訪神社」のつもりで来ましたから、“No.2”の意味合いがある文字に戸惑いました。拝殿内の掲額も同じでした。
こうなると、先ほど参拝した上諏訪神社が「第一宮」となります。そちらは小さな本殿のみと言う規模でしたが、駐車場がかなり広かったので、それなりの格式があるのかもしれません。やはり、他人(ひと)ごととはいえ、この地では二つの諏訪神社をどう“認識している”のかが気になりました。
本殿の写真を撮ってから境内を下ると、「万年大夫夫婦坐像」の収蔵庫があります。しかし、宮司不在の神社とあって、胎内像の拝観は不可となりました。
ところが、戻った駐車場で読んだ案内板に「光圀が作らせた万年大夫夫婦坐像は日立市郷土博物館に常設展示」とあり、その拝観が叶うことになりました。
自宅で地図を眺めると、両社は鮎川で距てられています。その立地から、かつては二つの村があり、それぞれが勧請した諏訪神社の可能性が出てきました。ネットで調べると、上諏訪神社は旧成沢村で、下諏訪神社は諏訪村でした。
ガラスケースに収まった二組の木像を見て、胎内像もここに収蔵展示してあることがわかりました。
説明を読むと、「第二宮」は、本社の諏訪大社に“次ぐ”という意味で、万年大夫夫妻が水穴に入ったのは今で言う「通底伝説」で、本社の諏訪大社へ行こうとしたことがわかります。
受付で「展示物の撮影は自由」と確認しましたが、いざカメラを向けると、ガラスに照明光が映り込んでいます(左写真)。私の性分では「これでよし」とすることができないので、個別に撮ったものを以下に紹介しました。
説明文は、サイト『茨城県教育委員会』の〔いばらきの文化財〕から転載したものです。
大夫像の背中に刻銘があり、パネルに「常陸多珂郡諏訪神祠有万年大夫藤原高利夫婦像/年久朽弊令新命工改造二像/蔵故像於其體中/以垂将来/元禄三年歳次庚午十月吉日/水戸侯源光圀識」と書いています。漢文は得意という方は読み下してください。
書き下し文ではありませんが、その続きに「常陸国多賀郡諏訪祠に、万年大夫藤原高利夫婦像があり、年月がたち腐っていたので、新たに工に命じ二像を造り、旧像はその体中に納めた、もって将来に伝えるものである」と説明がありました。
二階のフロアーに、常陸国の名所が描かれた「常陸名所図屏風」が展示してありました。
諏訪の水穴を描いた場所に「風穴」と説明があるのを見て、もう少し登っていればと悔やみました。
実は、その上に続く小道があったので「どこへ続くのだろう」と50mばかり登りましたが、先行きが見えないので引き返していました。「まー、史料に載る風穴は、現在は無風穴の場合が多いからなー」と、限られた時間では適切な判断だったとしました。