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島田郷一之宮御社宮司社 飯田市松尾上溝 1.8.3

■ その後の調べで、加筆編集する場合があります。

 上溝(あげみぞ)御射山社で紹介した〔一、御射山社〕の一部です。

 八幡原の北端、鼎町に面した所に上溝の御射山社があるが、これは島田村にあった諏訪社の御射山社であったと考えられる。長徳年間の勧請という。伊賀良庄から諏訪本社に奉献する猪鹿の頭をここに集めたという伝承がある。島田村の諏訪社は早くなくなってしまって跡はわからない。
松尾村誌編集委員会『松尾村誌』〔神社・仏閣・民間信仰〕

 摂社の御射山社ならともかく、本社の諏訪社が廃絶し、その跡も不明というのが不思議です。

島田郷一之宮御社宮司社参拝 1.7.21

 御射山社と同名ということで、かつての上溝村の中心地だったと思われる上溝集会所(公民館)に寄りました。今持てる以上の情報を得ることはなかったのですが、隣接する「天神社」が「上溝天神塚古墳」の墳頂にあるという立地なので、参拝と石室見学の両方を果たすことができました。

 本題の御社宮司社ですが、「御射山社を探す中で偶然に見つけた」と言ってもストリートビュー上のことです。改めて現実のその前に立つと、立ち寄り参拝者には嬉しい案内板がありました。代田鎮座の「下の宮諏訪神社」と同じデザインなので両者に繋がりがあることを思いましたが、設置者名はありません。

島田御社宮司社

島田御社宮司社 ごつい基壇がいかにもミシャグジという雰囲気ですが、それと、案内板の冒頭で「島田郷一之宮」と高らかに謳っているのが何か一致しません。
 さらに読み進めると「この地へ遷座した」とあるので、少しだけ古色が戻ったように見えました。それは私の勝手な感覚として、旧鎮座地の字(あざな)が書いてあるのが気になります。しかし、諏訪では見られない長大な河岸段丘を見下ろしても、「松葉」がどこにあるのか想像もつきません。江戸末期とあっては痕跡も残っていないと、一瞬浮かんだ“藤の木の下にある”という古跡地巡りは断念しました。
 ここまで来たので、スマホが表示している史跡「飯田古墳群」の一基「姫塚古墳」に向かいました。

案内板に不備が…

島田御社宮司社 案内板で気になるのが、「御社宮司古趾、在一藤樹下境内凡十」とある記述です。ここだけ古文献の転載という文体から、「十」の後に続く文言がそっくり抜け落ちているのが明白です。
 つまり「御社宮司社古趾、一(本の)藤樹の下に在り」ということですから、「境内凡そ十(坪)」と続けてみました。次の「」も意味が通りませんから、「古代」を当てはめてみました。

御社宮司社は「諏訪社」なのか

 後半に、「上段の御射山神社」が出てきます。旧鎮座地が「下段」とあるので、この段は河岸段丘の「段」で、上段は上溝御射山社とわかります。両社の関係から、かつての「下段の御社宮司社」が諏訪社の代わりと考えれば、諏訪社の所在地が不明というのも納得できます。

所在地不明の島田村諏訪社は、下の宮諏訪神社だった!!

 冗談半分に(諏訪広域図書検索システム)『諏訪ズラ〜』で検索すると、諏訪市図書館に、まさかの『松尾村誌』がありました。どんな伝(つて)で蔵書に収まったのかを調べるのも面白そうですが、さっそく借りて通読してみました。
 すると、再びまさかの記述がありました。以下は、〔嶋田村古社寺書上帳〕から関係する部分を抜粋したものです。

三冊の書上帳をあげておく。…御射山明神は上溝の御射山(中略)
 寛保四年の社寺には小字がついているから、各耕地毎に検討研究していただきたい。庄内一大明神は代田の下の宮であるなど地主の名より推しはかるのもいい。
◎嶋田村寺社堂書上ヶ覚(宝永四年/1707)

一、下宮明神

但 祭礼勤行 毛賀村 主膳

一、御射山明神

◎覚(寛保四年/1744)

一、原 御射山神社(高サ二尺五寸)

祭礼 七月廿六日 大平伊賀守相勤申候

一、下宮 庄内一大明神社(四尺五寸)

祭礼 七月廿五日 毛賀村善右エ門相勤候

◎嶋田村神社書上覚(宝暦九年/1759)

一、御射山明神社 上ノ原

社人 大平丹治

一、庄内一大明神 下ノ宮

祭主 毛賀村 井原健次郎

松尾村誌編集委員会『松尾村誌』〔神社・仏閣・民間信仰〕

 庄内一大明神が、別称の「下宮下ノ宮」から、現在の「下の宮諏訪神社」であるのは間違いないでしょう。これで、「御社宮司社は諏訪神社の代わり」とする命題を画策する前に、「上溝御射山社に対応するのが下の宮諏訪神社」と答えが出てしまいました。
 しかし、同じ『松尾村誌』にある相反する記述と、両社の距離がやや離れているのが気になります。後者は、「島田村は、(代田から上溝まで)南北に長い村だった・間に鳩ヶ嶺八幡宮という大社があり、直近の段丘上に(山宮である)御射山社を造営できなかった」とすれば説明がつきます。
 いずれにしても、上溝の御社宮司社が特異な存在であるのは変わりません。中世では、諏訪神社(現諏訪大社上社)の式年造営に関わる、南信(南信州)では随一の拠点であったことは間違いないと思われます。