諏訪神社が鎮座していなければ、一生涯その地を踏むことはなかった奥出雲町。「諏訪神社が取り持つ縁」などと書けば、「勝手に押しかけておいて何を言うか」と祭神にそっぽを向かれそうですが、とにかく、斐伊川(ひいかわ)の上流にある、諏訪の神が鎮まる地に立ってきました。
今回は、「斐伊川の支流の一つ阿井川」と言っても、地図で調べてわかったのですが、その上流にある建御名方神社を参拝しました。奥出雲町では最後の諏訪神社となります。
『雲陽誌』〔仁多郡〕から、「上鴨倉(村)」を転載しました。「下鴨倉」の記載もあるので地図で探すと、現在も「上鴨倉・下鴨倉」が字(あざ)としてありました。
ナビの指示ですが、県道51号は暗く狭く、どこへ連れて行かれるのかと不安でした。現在位置と到着予定時間から一時(いっとき)の辛抱とした通り、すぐにこの道から開放されました。
ポッカリと開けた一つの斜面に、鳥居が見えます。農作業の姿がないのを確認してから、農道の一画に駐車場を確保しました。
この時間で4持ですが、初夏の日射は強く、汗をかきながら登ると簡素な拝殿がありました。
気になる左の碑ですが、「五穀豊作」とだけ刻まれています。記念碑とは異なるので裏側に廻ると、「社日五柱大神」とあります。出雲ではよくある(長野県諏訪ではまったく無い)「社日」でした。
社額は、金文字で「建御名方神社」です。社名が酷似した「御名方神社」が出雲市の斐川町にありますが、祭神は諏訪の神様ではありません。したがって、島根県では、建御名方命を神社名としているのはここのみでしょうか。
拝殿から離れて奥へ廻ると、質素な大きさと造りの本殿に、木漏れ日が程よく当たっていました。
残念ながら、この神社には由緒書がありません。鴨倉の氏子が内々で奉祀している神社で、私のような“者”はまったく想定していないのでしょう。詳細がわからぬまま石段を下りました。
冒頭に挙げた写真でわかるように、正に村の鎮守様と言える景観は、日本人の私が言うのも変ですが、これぞ「cool japan」といったところでしょう。その境内から見下ろした景観も、以下に紹介しました。
左下が、広角の俯瞰では傾いてしまった鳥居です。神社は、地図では下鴨倉の集落を見下ろしていますが、現在は鴨倉なので、旧両村の中間を見守っていることになります。
因みに、中央の道が県道51号です。私は、右奥の山向こうから来て、同じ道を静かに退散しました。