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御射山社と知久平諏訪神社 飯田市下久堅知久平 1.5.18

 グーグルマップで「飯田市 御射山神社」を検索すると、“とんでもない所”に「知久平諏訪社 御射山社が出現しました。クリックすると、小さな板宮の写真が表示します。この大きさですから、誰か奇特な人が登録したのでしょう。鎮座地は「下久堅(しもひさかた)柿の沢」でした。

※「御射山社(知久平諏訪社摂社)」が正でしょう。

御射山社参拝 1.5.8

 飯田市毛賀の御射山社が参拝できたので、柿の沢に鎮座する御射山社まで足を延ばす気になりました。その神社へ向かう国道256号ですが、天竜川を渡ると急坂となり、先行車がたびたび停止します。それを見て、大型車とのすれ違いが困難な道とわかりました。
 人家がなくなった分だけ対向車に気を遣わなくなった道を渓谷沿いに遡上すると、「なぜここに」という異常に広い駐車帯があります。目的地に近いので、これ幸いと御射山社探索のベース基地にしました。

知久平御射山社 地図を表示したスマホを片手に脇道に入ると、眼下に国道が並行しているのが見えるほど高度が上がりました。
 諏訪より一段と進んでいる春を確認しながら進むと、写真の標柱が現れました。30mも登ると、小尾根の上に祠と石仏が並んでいました。

知久平御射山社

 基台に「知久平村中」とある石仏は、右手は剣を握り左手には壺状のものを載せています。不動明王と異なる柔和な顔とあって正体がつかめませんから、取りあえず石仏と紹介しました。
 御射山社については、以下の文に代えました。

御射山社
 知久平諏訪神社の山宮として、柿の沢牧の内に「御射山社」がある。神社から東方約一キロメートルの台地上にあって、今では松林に囲まれ眺望も悪いが、昔は知久平の集落や天竜川西部が一望できたと言われる御山である。
 地域ではここを御射山と呼び、神々が住んでいる処として祓いしてきた。
 山頂には縦横五〇センチぐらいの祠と石柱(※ママ)がある。祠は区民有志の寄贈によるもので、風雪等で毀損(きそん)するたびに改築されてきた。
 下伊那史第五巻には「この地の「牧の内」は鎌倉武士としての、知久氏の牧であったことが伺われ、知久氏の馬牧の地であったとともに諏訪上社に因んだ御射山神事が行われたことが推定され、これらのことは神氏知久氏がその宗家諏訪氏とともに、こうしたことを媒介として鎌倉幕府と密接な関係にあったことがうかがわれる。」との記述がある。
 御射山社の山神は、国常立命で太陽信仰であると言い伝えられ、御射山の「御」は敬称、「射」は稲の苗の古称である。
 古くから神は、冬は御射山に坐し、春には里に降りてきて田の神、農耕神になると信じられてきた。
 知久平諏訪神社西方崖(宮下)には「御供田(おみおくだ)」という地名も残っている。古くからこの地に神田があったと言い伝えられており、ここに田の神が鎮座したのであろう。
 全国の諏訪社では御射山祭の例祭日を、八月二八日とする社が多いようであるが、現在知久平諏訪神社では御射山祭を行っていない。
 また、地域の神事や運動会等の採火はこの御射山で行われている。御柱大祭の御神火も、ここで宮司・宮世話人によって採火式が行われる。
 祭典委員会編『郷社知久平諏訪神社式年御柱大祭』

 これは、飯田市中央図書館で閲覧したカラーグラフの一部です。ここに“あの知久氏”が出てきたので、頭になかった知久平諏訪神社も参拝することにしました。

知久平諏訪神社参拝 1.5.8

 改めて鎮座地を探すと、先ほど通(かよ)った国道脇にありました。市街地からとって返しますが、酷道とあって駐車場が見つかりません。「下久堅自治振興センター」をお借りして徒歩で向かうと、やや奥まった場所にある諏訪神社の側方に出ました。

知久平諏訪神社 表参道から退出するという恰好で、正面に小学校が見える一ノ鳥居へ向かいます。
 気持ちを新たにして鳥居をくぐり直せば、五月の影が長く延び、知久平諏訪神社がシルエットになっていました。改めて、その境内に向かいます。

知久平諏訪神社本殿
二之柱一之柱

 この諏訪神社には、拝殿脇に二本の御柱がありました。

知久平諏訪神社拝殿 拝殿の左右奥に花火の手筒が見えます。南信州は手筒花火が盛んですが、奉納されたものが今も使われているのかはわかりません。
 拝殿を仰ぐと、なぜか掲額が「諏方三社」です。社号標は「郷社諏訪社」でしたから、悩みながら本殿を拝観しました。

知久平諏訪神社本殿

 振興センターは地区図書館を併設しているので、帰りに寄ってその謎を解こうとしました。しかし、今日は昼食抜きで駆け回っていましたから「早く帰ってビール」が頭の大部分を占めており、そのまま帰ってしまいました。

知久平諏訪神社について

諏方三社 本殿の写真を補正する中で、奥の柱の向こうに屋根の一部が見えることに気が付きました。改めて格子を透かすと、本殿の半分程度の社殿が左右に確認できます。定紋幕も同じ諏訪梶ですから、かつて散在していた諏訪社を一堂に会したものと考えました。

諏訪神社蟇股鷹に梶 本殿の「向拝柱貫の蟇股」と言っても蟇股がありませんが、彫刻に「枝に留まっている鳥」が確認できます。不鮮明ですが、国重文の古城八幡神社や大山田神社の諏訪社に見られるものと似ていますから、「鷹に梶」としました。室町時代からの流れを残している社殿かもしれません。

 ここでも、諏訪神社と御射山社の位置関係を挙げてみました。
 何か遠くにあったような気がしましたが、直線距離で約1Kmです。今は学校で分断していますが、御射山社前から諏訪神社まで続く道が、かつての幹線道路(秋葉道)だったように見えます。

改めて知久平諏訪神社

 ネットの情報では、知久平諏訪神社の御柱祭は盛大に行われ、諏訪大社から薙鎌も拝領されることを知りました。知久平諏訪神社への興味は尽きませんが、諏訪ではこれ以上の情報は得られません。

 ところが、『すわズラ〜』で検索すると、諏訪市図書館に『下久堅村誌』がありました。さっそく借りて抜粋しました。

2、知久平諏訪社
 知久平諏訪社は知久氏が鎌倉時代この地に来住すると一緒に諏訪上社を勧請したのだといわれている(市村成人氏著「知久平城址」)諏訪神を中心に八幡宮・山の神を配祀している
 境内には大神宮・社宮司・天伯・稲荷・天伯二社・子安・若宮・根渡・(所政)・拍子(拍手)・穂俣・溝(溝上)・若御子・荒玉・玉尾・磯並・久須井・前宮・千野河・藤嶋・若宮などがあって、その数は本宮と同じであるといわれる。
 所社から千野河社までは延享元年の「社寺改帳」にはすでに「宮零落仕(つかまつり)がく(額)板斗(ばかり)御座候」とあって神祠はなかったのである。
 神主家には上祝・下祝があって諏訪社の大祝の分家であるといわれ、神社の下方に斎田があり、「おみおくだ」の地名も残っている。
下久堅村誌編纂委員会『下久堅村誌』〔寺社・寺子屋その他〕

諏訪梶「諏方三社」 「諏訪神を中心に八幡宮・山の神を配祀している」を読んで、諏方三社が“これ”なのかと思いました。しかし、右側社殿の定紋幕は諏訪梶で間違いありません。今後の究明事項となりました。、

「所社から千野河社まで」 諏訪大社上社の神宮寺は明治初頭に破却され、その存在を偲ぶことさえできません。そこにあった五重塔を寄進したのが知久氏です。それで“あの知久氏”と書いたのですが、その篤い信仰心を思えば、本社の十三所を知久平諏訪神社に完全コピーしたのも「もっともだ」と納得できました。