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諏訪大社の七不思議「穂屋野の三光」

諏訪に伝わる七不思議
 諏訪大社には、「七不思議」という“不思議もの”が伝わっています。また、「上社」と「下社」にも独自のバージョンがありますから、どの七不思議を挙げる(推す)かによって内容は変わります。その中の一つに、御射山祭に絡んだ「穂屋野の三光(ほやののさんこう)」があります。
 七不思議の記述がある最も古い文献は、嘉禎4年(1238)の奥書がある『諏方上社物忌令之事(上社本・神長本)』です。その中に〔七不思議之事〕が書かれていますが、穂屋野の三光は載っていません。記述にないからといって直(ちょく)に決めつけることはできませんが、穂屋野の三光は、上社では比較的新しい時代に成立したと考えることができます。
 一方の下社ですが、戦乱で多くの文書が焼失したので、それ以前の七不思議は文字としては確認することができません。

旧御射山社(穂屋野の三光)
「霧ヶ峰旧御射山社周辺」17.6.18

 私が思い描く三光は、里山(上社の御射山)ではなく、人里を遠く離れた霧ヶ峰(下社の御射山)から仰ぐ三つの光です。そのイメージから、穂屋野の三光は、元々は下社の七不思議の一つであったと考えてしまいます。
 「嘉禎以降」という漠然とした時代を示すことしかできませんが、上社では(的中率が低いために?)筒粥神事が廃れたこともあり、よりインパクトがある「穂屋野の三光」を「五穀の筒粥」に代わるものとして下社から導入したと思われます。これで、両社共通となったものがさらに各地の御射山社や原山社にも伝播し、各々の神社でも「三光」を見ることができるという伝承を残したと考えることができます。

穂屋野の三光とは

 鈴木重武編『(復刻)信府統記 第五』に、「諏訪郡」があります。この中で「俗に諏訪の七不思議と謂(い)う」として「七不思議」を紹介していますが、ここにも「穂屋野の三光」はありません。

御射山社(穂屋野の三光)
「上社の御射山」20.7.11

 ページを進めると、〔○御射山は高島の城の南にて…〕で始まる中に以下の文(原文はカタカナ)がありました。「高島城の南」ですから、上社の御射山とわかります。因みに、この時代では、下社の御射山社はすでに霧ヶ峰から武居入(たけいいり)へ遷されています。

(七月)二十七日午の刻(うまのこく※昼時)に日月星の三光並び見ゆ。是は古(いにし)え神功皇后三韓出陣の時、祈誓して此度の戦い利あらんに於いて三光一度に拝まれ給えとありければ、日月星現し給いしなり。其月日七月二十七日午の刻に当たれる例を以て、今に至りて此所に毎年此日三光あらわれる。是れ神功皇后諏訪に臨幸(りんこう)ありし故実(こじつ)の一つなりと云い伝う。

 「神功皇后が諏訪に来た」とあるのはさておいて、ここに「三光」の詳細が載っているので説明に代えました。
 小岩高右衛門(小巖在豪)著『諏方かのこ』に、(上社の)三光を詠んだ歌があったので紹介します。

一、御射山
(略)三の光見日月星の佳例あり
先年嵯峨似雲法師当所へ寄りたまう時、信州御射山の御神事をおがみ侍(はべ)
 空はれて 三の光をみさ山や かりふくほ屋の露のひるまに
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

穂屋野の三公

 松本藩の地誌『信府統記』では「今も現れる」とし、似雲法師も“見たような”歌を残していますが、やはり、当時であっても絶体にあり得ない天体現象であるのは明白です。そのため、「言い伝えを言い継ぐ中で、ある時期に誤ったものが伝えられたのだろう」で済ませてきました。ところが、三光が“半分事実”であることを窺わせる文献に出会ってしまいました。

旧御射山社(穂屋野の三光)
「霧ヶ峰旧御射山社」17.6.18

 今井邦治著『諏訪上下社神宮寺歴史資料』に、寛保二年(1742)の奥書がある『下社神宮寺寛保の起立書』が集録してあります。表紙に「下諏方別当寺務神宮寺 海岸孤絶山起立書 山内之門徒」と書かれた写真が添付してあるので、これが正式な名称でしょう。この中に「下社の御射山」関係の記述があります。

  奥院御射山の部

本尊十一面観音菩薩 本地仏なり。(中略)宝塔なり。五輪形の石宝塔を以て薩旧御射山社(穂屋野の三光)(さった)の宮殿とす。(中略)昔の奥院は秋宮の東里計百五十町を過ぎて旧跡あり。故(古?)御射山と号す。(中略) 

本地大満虚空蔵尊一宇 古求問(古を問い求めれば?)持堂あり、今時退転せり。奥の院(※御射山)祭礼は、毎年七月二十六日、寺社登山して二十七日午の刻日月星の三公を祭る法式あり。二十八日の朝下山す。
 虚空蔵菩薩大明神星の本地なり。日月の本地者(は)観音・勢至也。
 神秘の相伝に依って十一面観音を本地仏とす。胎蔵界因果、不二の如音を顕(あらわ)す。本宮秋宮之奥院是也。

 ここには御射山の本地仏として「十一面観音」が登場するので、知識にある虚空蔵菩薩と“どう区分け”していいのか悩みました。何回も読んで、下社では「御射山を司る神の本地仏が十一面観音」ということに落ち着きました。
 下社の“現況”を振り返れば、(御射山祭を行う)御射山社とは離れた尾根上に「国常立命社(虚空蔵菩薩)」があります。時代が異なるので参考になるのかわかりませんが、上社では、前出の『諏方上社物忌令之事(神長本)』の「下十三所名帳」に「大四御庵 十一面山御庵 虚空蔵」と書いています。御射山社が十一面観音菩薩で、国常立命社が虚空蔵菩薩ということでしょう。
 同書の別項ですが、関係するものとして転載しました。

  下諏方寺社年中行事

一、七月二十六日寺社中に於(いて)奥の院御射山に登山し、二十七日午の刻三公祭の神事執行。寺務は奠祭(てんさい)秘法法楽諏方講式を修して (略) 祈り奉れる。(中略) 社僧退散廿八日。社家退下(たいげ)廿九日也。

 思わぬ十一面観音の出現で話が飛びましたが、ここにも「三公」が出てきます。「二十七日午の刻日月星の三公」ですから「公と光」の違いだけです。また、「奥院御射山の部」では、「虚空蔵菩薩−星・観音菩薩−日・勢至菩薩−月」と説いていますから、御射山で行われる三公祭に参列すれば、空からの光ではなく、三公(仏)の後光を拝することができると理解できます。
 御射山祭がこれほど仏教と習合していたとは驚きましたが、下社神宮寺の文献からは、一般的に謂(言)われている「光」は「公」が変化したものと結論づけができます。
 翻(ひるがえ)って諏訪神社下社の文献を思い起こすと、『桃井禰宜太夫留書』がありました。27日のみの抜粋です。

 同二十七日午刻神殿新壇、神官其四方坐、(中略)穂屋之祭祀之(これを)執行、城主自(より)代参人有、次三光拝式アリ、例年此日三光顕之日也、参詣衆人山上於之拝
下諏訪町誌編纂委員会『下諏訪町誌上巻』

 ここでは、「三光が現る日・皆拝す」としか書いてありません。『信濃奇勝録』は幕末の本ですが、これも「日月星ともに照臨(しょうりん)」と素っ気なく書いています。
 やはり、“理詰め”が見られる神宮寺側が有利ですから、「穂屋野の三公」が“本家”でしょうか。

『虚空蔵求聞持法』

 ネットで、前項で何回も登場したキーワードを複数並べて検索したら、空海の奥義である「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」が表示しました。「日・月・星を観音・勢至・虚空蔵の三菩薩に配し、明星を以て虚空蔵の化身とし、故に虚空蔵求聞持法を修するには明星に祈祷す」というものですが、弘法大師が修したものを私に理解できるはずはありません。紹介のみとしました。


‖サイト内リンク‖ 八島ヶ原湿原の「日月星」