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諏訪大社本宮の「不明門」 22.5.29

 『上社古図』には、境内を囲む玉垣(板塀)の一部に門があり「不明門」と書かれています。『諏訪藩主手元絵図』にも、玉垣はありませんが「不明門」が描いてあります。
不明門 左図は、神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』の一部です。その位置は、絵図なので正確ではありませんが「硯石」の後方に当たります。早くに退転したらしく、現在は痕跡ですら残っていません。
 下社の古絵図にも、春宮は幣拝殿に向かって左側・秋宮は右側に不明門が描かれていますが、こちらは現在でも見ることができます。いずれも「あかずのもん」と読みますが、開かない門なら無くても一向に差し支えないと思いますが、「その時が来れば」必要になるのでしょう。
 不明門は『造営帳』に載っていますから、式年造営が行われた頃は6年ごとに建て替えられたことになります。逆に言うと6年間だけ保(も)てばいいので、屋根はあるものの構造は極めてシンプルだったと思われます。ところが、『造営帳』には上位の場所に書かれているので、「かなり重要な門」とも思ってしまいます。

不明門が開けられるとき

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に『信濃国昔姿』が収録されています。ここに不明門の話がありました。

 薬師堂の下北の方にあり、俗説に大祝譲位なく卒去あれば則(すなわち)其骸(むくろ)を神前へ舁す(かくす※かつぐ)行事ありて、其後此不明門を開きて此所より舁(かつぎ)出すとの伝説なり、左(さ)もあるべきか、大祝は則当社御神霊の御名代なれば世俗の伝説まことなるべし、

 寛正6年とある『神長守矢満實書留』の一部です。同書から転載しました。

 此年十一月廿日夜、大祝頼長大宮(※本宮)上坊(※如法院)に参籠候(そうらい)て行水仕(つかわし)め湯帷(かたびら)着ながら死去候、不思議なる次第也。頼満子息廿四歳にて、此祝は七歳より祝に被立(たたれ)候、送葬は烏帽子苅(狩)衣沓むかばき(行縢)にて神宮寺阿弥陀之上に先例(に)(まかせ)、鬚髪(しゅはつ※鬚はヒゲ)剃除(ていじょ)めさず土葬にせられけり。往古は管絃(かんげん※管と弦で雅楽)にて諸人水干の露を取て御供申候(もうしそうろう)、今度は先例(に)(そむき)安国寺住持(※住職)に仏事をさせられ候也。
「剃除めさず」とした原文は「不剃除メ」です。

 実は、この文の前に「因」の部分があり、この「果」で終わるのですが、直接には関係ないので省きました。
 諏訪市『諏訪市史上巻』では、この『書留』を「(大祝は)明神垂迹の姿と伝える装束で、髪・ヒゲは剃らず、(中略)これいらい大祝の葬法は仏式を採用したとみられる。大祝家つまり上社が実質的に神仏混合になったことを示している」と解説しています。
 『諏訪史料叢書』の「書目解題」に、「延寶七年(1679)幕府よりの命に依り書上たるものゝ控にして…」とある『社例記』がありました。その中に「一、平城天皇御宇御表衣祝有員社務…」で始まる大祝を説明した文に不明門があります。

(前略) 自然職中卒去則移神前、従不明門之、到此卒去露顯。
〔意訳〕もし職務中に卒去あれば、即神前に移し、不明門に従って之を出す、ここに至って卒去を公表す。

 次に、郷土史家の原直正さんが「長野日報」のコラムに寄稿した『上社本宮境内「横穴」の謎』から、不明門に関係する部分を転載しました。

(前略) 不明門は特別な時に使用する門で、上社の生き神である大祝が在職中に亡くなったとき、ただちに遺体を本宮神前に移し、暫く置き、その後不明門より運び出し、鬚髪を剃らず、烏帽子、沓などを着用のままに土葬したと伝えられている。(宮地直一氏は、『諏訪史』の中で、実際には神殿邸内の神座および不明門での行事ではなかったか、としている)
 遺体を表門ではなく不浄門または不明門より出すのは世間の習わしであったというが、(後略)

 ここにある、宮地直一氏の「話」に注目しました。「なぜ大祝の遺体を、わざわざ本宮の神前に運ぶのか」という疑問がありますから、古文献に見られる「大祝に関連した不明門」は、「神殿(ごうどの※大祝邸)の不明門」とすべきように思えます。
 物忌令には「大祝は死穢を受けず」とありますから、穢れの対象にはなりません。むしろ、大祝が死ぬこと自体がタブーなので、言い替えれば「大祝は死んではいけない(神は死なないことになっている)」ということになります。大祝邸の外で死んだ場合は、まだ生きていることにして大祝邸に運び、然るべき神事を行って退位させ、(これで穢れの対象となったので)不明門から出したと説明することができます。
 伊藤富雄著『伊藤富雄著作集 第六巻』の〔諏訪上社大祝の話〕から転載しました。

 神殿内の大祝の日常生活に関しては、史料の欠如により詳らかでないが、彼は常に明神の正体と号して夏鹿皮(※夏毛皮?)の褥(しとね)に座し、近親に死者があっても死穢を受けなかったといわれ、また、諏訪郡外へは決して出なかった。もし在職中に卒去すれば直に邸中の神前に移して神との訣別を行い、やがて不浄門なる明かずの門よりこれを出し、然る後に始めて一般にその卒去を披露したと伝えられている。とにかくその境遇上常人と異なった生活であった事はおよそ想像に難くない。

 改めて『社例記』を読み直すと、(前略)とした箇所に「故に、住宅を以て神殿と号す、又諏訪郡外に出ず」とありました。大祝と神殿を説明した文なので、本宮境内の不明門とは関係ないことがわかりました。
 こうなると、上社本宮と下社の春宮・秋宮に不明門がある理由がなくなってしまいます。あくまで、その中で“起こってしまった”時に備えて、ということでしょう。

昭和・平成の“不明門”

 本宮は、平成15年に、老巧化して傾いていた玉垣を更新しましたが、写真の南参道側は比較的新しいのでそのままでした。
不明門 その中間辺りに門がありますが、板の柵で一年中閉じられています。裏から見ると蝶番があるので、扉であることに間違いありません。ただ「何だろう」で済ませてきましたが、これが現代版「不明門」ではないかと思い当たりました。

 写真ではわかりませんが、玉垣下の石垣と道路の間には、蛙狩神事がおこなわれる御手洗川が流れています。「人が楽にまたげる幅だから」ということではないようですが、橋がありません。いつ頃造られたのだろうと玉垣の銘を調べると、最端の石柱に「昭和辛未年」とありました。「もったいぶって書かれても…」ですが、年代表で調べると昭和6年でした。今から80年余り前ですから、門を含む玉垣が造られた経緯とそれ以前の景観を直接語れる人はいないでしょう。

 先日、顔見知りの諏訪大社職員と話す機会があったので、それとなく聞いてみました。「以前は、駒形屋の前にある大燈籠は外にあった」「あの門からも出入りしていたと聞いている」と話してくれました。ここで「不浄門とも言える不明門」を持ち出すのはためらわれたので、この件についての話は終わってしまいました。使用目的は不明のままですが、「開かずの門」には違いないので「諏訪大社本宮の不明門」として紹介することにしました。