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諏訪頼忠慶讃案・諏訪上社御寶殿御輿棟札

平成28年 前回に続き、大きな事故が起きてしまい残念な結果となりました。関係者には辛いお祭りになってしまいましたが、大きな視点では今回も平和な世の中で行われた御柱祭でした。

天文11年 諏訪教育会編『復刻諏訪史料叢書』に収録してある『守矢頼眞書留』の一部です。

 天文十一年(1542壬寅)

一、(前略) 頼重きんしゅ(近習)のかたん(加担)にて一族へ口惜よし仰(おおす)、すて(で)に事切(こときれ※死ぬこと)に成候処(なりそうろうところ)、藤沢殿(の)以扱(あつかいをもって※計らいで)無事成候(なりそうろう)

一、此年神長御柱宮番にあたる…

一、此年四月四日頼重のちゃくし(嫡子)誕生…

一、此年六月十一日宮うつし(移し※遷宮)、此日字王殿(※寅王丸)はしめて(初めて)御宮参(る)

 「2010−1542=468」ですから、468年前の御柱年です。この年は、冒頭から「諏訪頼重は無事だった」と始まる激動の時代でした。この中に、(御柱年の寅年に生まれたので名付けられたと思われる)「寅王丸」が、宝殿遷座祭が行われた当日に本宮(御宝殿)へ参拝したと書いてあります。頼重と正室禰々(ねね※武田信玄の妹)が、二ヶ月になった息子の健勝を祈願したのでしょう。
 しかし、諏訪頼重はこの一ヶ月後に武田信玄に捕らえられ、甲府で自刃させられました。これは史実ですが、小説やドラマの「風林火山」に重ねて、しばしその世界を彷徨(さまよ)ってしまいました。

天正12年(1584) 上社が織田軍に焼き払われてから二年目の御柱年です。諏訪大祝家を継いでいた諏訪頼忠は、本能寺の変に便乗して奪回した諏訪を支配していました。
 彼は、諏訪上社の復興が急がれる中、神輿を急造して宝殿に奉納したそうです。その時に神輿に納めたのが「諏訪頼忠慶讃」です。「慶讃(きょうさん)」は「仏像・経典・堂塔の完成を祝うこと」なので仏法の用語ですが、「よろこび・たたえる」と読めるので差し支えないのでしょう。

諏訪頼忠慶讃案(寫)

諏訪頼忠神輿再造事書

 信濃史料編纂会『新編信濃史料叢書』と『復刻諏訪史料叢書』収録の『守矢家文書』から、「写(案)」を転載しました。この諏訪頼忠慶讃の「真筆」は、宝殿の中にある神輿の中に納められているそうです。この年から、(新しく造った宝殿しかありませんから)「新造の宝殿へ遷座するようになった」と言われています。
 始めの部分に「嗚呼(ああ)未聞なり」があります。いかめしい文に直接口から出る感動詞「ああ」ですから、「神家の棟梁」諏訪頼重を亡くし、「宮中、ことごとく灰燼(かいじん)・瓦礫の場」となった諏訪上社を前にした諏訪頼忠の嘆きのほどが想像できます。織田信長が明智光秀に討たれたのは、その双方に遠隔マインドコントロールを仕掛けた神長官の祈祷と神家・諏訪氏一統の恨みだと思いますが、…どうでしょうか。

諏訪上社御寶殿御輿棟札(寫)

 『復刻諏訪史料叢書 第五巻』の〔金石文〕からの転載です。

大工
牛山因幡守長家

小工五人
原源治郎感直
同名 但馬守
牛山半左衛門
原藤兵衛
同名源左衛門

奉行
守屋志摩守昌親

于時天正十二年 申申 六月朔日
寶殿御輿棟札

 これも「写」なので、“本物”は神輿の中へ納められていることになります。