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諏訪大社本宮の「宝殿と遷座」 22.1.4(23.7.5改)

【遷座】天皇または仏像・神体の座をよそへ移すこと。
【遷宮】神殿を建て替えるとき、神霊を移すこと(儀式)。

 上は、三省堂『新明解国語辞典』の“見解”です。ところが、諏訪大社上社の式年造営御柱大祭で行われる「宝殿遷座祭」は、全国共通のこの方式とはやや異なります。

東宝殿・西宝殿

東宝殿
東宝殿 21.12.22

 写真は東宝殿です。枠外で見えませんが、石橋を挟んで右にある西宝殿は、現在は取り壊されて礎石のみになっています。東・西と言っても、山裾の地形に沿わせた配置なので正確な方位ではありません。
 宝殿は、6年毎の式年造営で交互に建て替えをします。言い方を変えれば、各々の宝殿は12年毎に建て替えをすることになります。

『諏方大明神画詞』に見る宝殿と遷宮

 以下は、“知る人ぞ知る”「桓武の御宇に始れり」とある、『諏方大明神画詞』の「諏方縁起」の一部です。ここでは、「新社・古社」が「現在の宝殿」に相当します。

 寅申(とらさる)干支当社造営あり、一国(こう)祝(税等、年貢事也)、永代課役、桓武御宇(ぎょう)始れり、
 但(ただし)遷宮法則諸社にはこと(異)なり、自元(元より)古新二社相並て断絶せず、仍(よって)假(仮)殿の煩(はん※わずらい)なし、先年寅歳(トラ年)造替新社七廻の星霜(経)れば、天水是降露かわ(乾)く事なし、当社奇特の随一也(※上社七不思議)、自(し)(※おのずから)潔斎して今度申歳(サル年)遷宮をな(成)し奉る、
 其時古社又新造(ぞう)後七年送りて神座、又七年(経)れば前後干支一き(めぐり)十三年(たり)撤却(てっきゃく)、其跡に又新造造替して来寅(待)つ、如く此(この如く)輪転、是則(これすなわち)両社同末社一同の儀なり、
 されば彼(かの)年暦に当れば、初春より国司目代(めしろ※代理人)巡役官人大行事(※造営の責任者)に差、御符きり、国中要路(※関所)すえて神用分配、一国人民諸道工匠(くしょう)経営、氏人(うじうど)并(並びに)国中貴賤、人屋(家)営作なさず、料材他国へ出さず、数十本御柱上下大木、一本別一(、)二千人力(ちから)にて採用す、
 加之(これに加えて)首(元)服婚嫁礼其以(それをもって)ととむ(止む)、違犯必ず神罰こうふる(被る)
 垂迹(すいじゃく)已来(以来)越年例なし、年内必造(必ず造り)(終わり)とげて覆勘(ふっかん※今で言う監査報告)いう啓白(けいびゃく)申事也、
『新編信濃史料叢書』から、権祝本『諏方大明神画詞』(12)

 『画詞』では、6年前に造った“新古”とも言える宝殿への遷座を「社殿を6年間かけて清浄にするため」と説明しています。そのため、建て替えは、前出の「12年毎」という言い方になります。

西宝殿
竣工間近の西宝殿 22.5.30

 この時代では、前宮の「内御玉殿」に「神宝」が納められていますから、私には、その他の宝物があっても、宝殿は「神輿の収蔵庫」としか見えません。
 ところが、「宝」にこだわらなければ「宝殿の実質は本殿・神輿の実体は神体」と考えることができます。八代国治博士は『国史叢説』の中で「宝殿は本殿」説を唱えていますが、これには激しく反発するする人もいて、私もうなずいてしまうこの説は居心地がよくありません。

 一方、諏訪明神が「吾に体無し、汝を以て体と為す」と宣言していますから、「神体は大祝」となります。その“方式”では本殿は必要ありませんから、遷座をする必然性もありません。しかし、遷宮・遷座というビックイベントは「外」に向けては神社の存在を大きくアピールでき、「内」ではそれに伴う収入増は魅力的です。そこで、本殿という手を使えないので(畏れ多くも)「宝殿を遷宮するシステム」を作ったと考えてみました。
 『諏方大明神画詞』は「遷宮」、古文献では「宮移(みやうつし)」とあるように、「遷座」の文字が見えないのは、社殿を遷すことだけで“目的”が達せられるためでしょう。しかし、それでは“見え見えでマズイ”ということで「神輿の遷座」を取り入れたと推察することができます。それが、現在の名称「宝殿遷座祭」に繋がっていると私なりに考えてみましたが、どうでしょうか。
 この流れでは「神体」は「大祝」ですから、今で言う「神居」は「諏訪明神の神陵」とした方がスッキリします。明治以降に言われるようになった「神体山」など必要ありませんから、諏訪神社上社を説明するには「これ」が一番無理がありません。

遷座は6月の日中

 遷座の時間は昼間(午の刻)ですが、宝殿内では提灯に火を入れるそうです。平成22年に初めて遷座祭見学の機会を得ましたが、噂の提灯を見ることはできませんでした。
宝殿遷座祭 一般には遷座は夜に行うのが本義とされ、諏訪大社下社も夜8時に遷座しますから「昼間の照明は、上社もかつては夜に遷座していたことを証明するもの」というのが定説です。
 しかし、「宝殿の前は布橋・宝殿には窓がない・御簾と金襴の“カーテン”で採光が限られる」という単純な理由で明かりを入れるのが真実と思えます。何しろ、文字に残っている記録には「夜の遷座」はありません。
 半年後の煤払神事では内陣の扉が開けられ、宝殿内に“電気ローソク”と思える灯りが見えます。年末という季節柄もありますが、宝殿前の神事でもフラッシュが必須なほど暗い状態です。

現在は、新造の宝殿に遷座

 「遷宮と遷座」は、『画詞』にあるように、仮殿や御旅所を設けない諏訪大社独自の方法です。しかし、「新造してから7年目に遷座する」も、織田軍に上社の社殿をすべて焼き払われたので「輪転」が不可能になりました。焼き打ちから二年後の天正12年は「申申の御柱年」です。「諏訪頼忠が再造した神輿は、この年に宝殿に納めた」とあるので、この時から「現在の、新しく造った宝殿に遷座する」ことが始まったと言われています。「新築の家に入居」と考えると、人間の考え方では、全焼は好ましい契機になったとも言えます。

宝殿と“お下がり宝殿”

 諏訪史談会編『諏訪史蹟要項』に、(原善次郎蔵するものによる)「諏訪上社宝殿の図」が載っています。
大国主命社「間口が3間3尺・奥行が2間2尺の神明造りに、1間の外陣が合体した流造」と説明するより、のぞき込んでも一回りしても怪しまれない、本宮参集殿の裏に移築した左写真の「大国主命社(カヤノキさま)」を実見してもらった方がよいでしょう。現地へ行かれない方は、…写真で我慢してください。
 宝殿は「煤払神事」で内陣の御扉が開かれますが、金襴が下がっているので内部をうかがうことはできません。そのため、「宝殿には天井板がなく、神輿の上に当たる部分だけに一間四方の網代(あじろ)が吊り下げられている」も、又聞き・又見となっています。
 宮坂光昭著『諏訪大社の御柱と年中行事』に「上社の遷宮」があります。工事中の写真ですが網代が写っています。詳細はそちらを参照していただくとして、以下に、その一部を紹介します。

 新宝殿が完成すると、正面に内鎌(薙鎌)を打ちつける。これは御柱木が見立てられ、薙鎌を打ち込んで七年目に御柱になると同じ考え方であろう。宝殿内の神輿奉安の位置上部の天井には、守屋山にある「穂無しカヤ」を網代に編んだ物を用いる。この習慣については天正兵乱の際、神輿を守屋山中に避難させた故事の伝承がある。

北条高時『大宮御造営目録(写)』

 「遷宮」が見られる最古の記録は「北条高時の下知状」とされています。諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に『大宮御造営目録(写)』があったので、「御宮遷」の部分だけ紹介します。1329年の文書です。

御宮遷(移し)の時、赤飯三櫃(ひつ)の内、経書(経所)屋へ

一、瓶子(へいじ※酒徳利)一具(く※本)櫃飯一、雅楽(がこう)御子屋へ行くなり、祝殿御前に二立(ふたつたて※神事のランク)の津(※机)供え一膳これを供う、その年宮行事(※責任者)これを勤め仕(つかまつ)るなり、

一、当社御宝殿並びに内御玉殿、御戸結ぶ御布は下宮(※下社)八乙女・職掌の同役なり、

(中略)
 嘉暦四年己巳三月
   相模守平朝臣高時(※北条高時)

 記述の内容と最下位の祭式規模である「二立」から、遷宮の神事は質素だったと言われています。また、封印と思われる「戸を結ぶ布」がどのような物かはわかりませんが、下社の巫女と職掌が用意した記述に興味を引かれます。