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「御座石」諏訪七石 23.12.11

 「諏訪七石の御座石」は、現在も所在地が確定していません。「神様が座った石」という“定義”なので、別格としても特別な崇拝の対象にはなり得なかったのでしょう。そのため、「諏訪七石」と制定されても、周囲の環境によっては忘却の彼方へ押しやられ、流転の果ては「実はあの家の庭石が…」ということも考えられます。

文献に見る御座石一覧

 お馴染みとなった宮坂清通著『諏訪の七石について』を参考にして、一覧表を作ってみました。文献では、比定地が諏訪大社上社本宮と御座石神社の二つに分かれています。

諏訪上社物忌令之事(上社本 嘉禎年間)───
諏訪上社物忌令之事(神長本 文明年間) 御座石と申すは正面の内に在り、件(くだん)の蝦蟇神の住所の穴龍宮城へ通ず、蝦蟆神を退治、穴破り石を以って塞ぐ、其上に坐(すわり)給いし間、名を石之御座と申也、口伝これ在り
諏方かのこ(小巌在豪 宝暦6年) 神前
信濃国昔姿(乾水坊素雪 文政2年) 矢ヶ崎村
信濃奇勝録(井出道貞 天保5年) 矢ヶ崎
画入七石之事矢ヶ崎村内
信濃国一宮諏訪大明神由来記 神前
読みやすいように現代文に直してあります。
諏訪史蹟踏査要項(諏訪史談会昭和6年)矢ヶ崎
諏訪史第二巻前編(宮地直一 昭和6年) 上社境内のものは今見えず、矢ヶ崎村とするは御座石神社の御座石を指す

 御座石が初見する文献は中世の上社本『物忌令』ですが、所在地は書かれていません。神長本『物忌令』では、神長官が「(本宮)正面の内」としているので“これが本当”としたいのですが、その後の各書は「矢ヶ崎」を挙げているので混沌としています。

本宮境内説

 上社本宮説では「正面の内・神前」と書いていますが、「正面・神」が何を指しているのかピンときません。建造物として捉えると、その境目は「拝幣殿」になるでしょうか。
 御座石を(やや)詳細に書いている神長本『物忌令』は、奥書の神長名「満實」から「文明年間(1469-1487)」に書かれたことがわかっています。文明16年の『大祝職位事書』では、門(四脚門)を開いて「御正面・神前」に参拝という順なので、まだ「上壇・鳥居格子」という原初の姿と思われます。
 その向こうに御座石があるということですが、何しろ「竜宮城なんてお伽話ではないか…」という内容です。「口伝」とあるので文句を付けることはできませんが、「蛙狩神事」や「蛙石」と関連性があることはわかります。蛙穴を塞いだ石に座ったので「御座石」とすればわかりやすいのですが、「蓋石が蛙石」とも思えるので、その存在を含めて「口伝在之」で済ませることにしました。

御座石 左図は、神長官守矢史料館蔵『模写版上社古図』の一部です。天流水舎の右、現在の「筒粥殿跡」附近に「御座石」が描かれています。時代が下がった『諏訪藩主手元絵図』でも、ほぼ同じ位置に「沓石」とともに描かれています。
 振り返って一覧表の「正面の内・神前」に再び目を留めると、「この場所」からは大きく隔たっています。現状ではその欠片(かけら)もありませんから、筒粥殿の造営で「尊神の在所があるので、座石など必要ない」として追いやられ、境内を点々としたことが考えられます。
 これを可能にするのは「御座石の大きさ」です。絵図では天流水舎に匹敵する大きさですが、神様を等身大にイメージすれば(移転可能な)「路傍の腰掛け石」程度の大きさで済みます。移転を繰り返す中で「破損・埋没・盗難」などで消えてしまったということでしょう。その経緯も不明となった時代では、その名を挙げる必要がある人は、それを御座石神社の御座石に求めるしかなかったということでしょうか。

矢ヶ崎説

 茅野市の御座石神社にある磐座の一つとする説です。『諏訪史』では、「諏訪七石」ではなくて「御座石神社の御座石」と断定しています。境内には「御座」に当てはまる「石」がなく、私も、神社名は「御在所」が「御座石」に変遷したと見ているので、その説に頷いています。その辺りの経緯は、下段の〔御座石神社〕を参照してください。

(私本)「御座石は“仮称”」説

 本宮境内説の一つで「一時期、蛙石が御座石と呼ばれた」というものです。思いつきのような話なので大っぴらにできません。興味のある方のみ下記〔蛙石〕の最下段をご覧ください。ただし、「古絵図に描かれた御座石」とは整合性がありません。


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