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「尊神の御在所」考 27.11.3“改訂版”

 余りにも大きな“命題”なので、訂正・削除をすることがあります。

「神居」は尊神の御在所

本宮境内図 諏訪大社上社本宮では、各所に「境内案内図」が掲げてあります。その中に、本宮の中核となる幣拝殿の背後には幾つかの木が描かれ、そのスペースに「神居」と書いてあります。文字通りの「神が居る場所」と解釈していますが、古文献には見られないので最近(戦後)の名称でしょうか。

『諏方大明神画詞』

 以下は、上社本宮の古態を説明する際に引用される『諏方大明神画詞』の一部です。上壇が、現在の「幣拝殿・神居」とされています。

社頭の躰(体)三所の霊壇を構えたり、其の上壇は尊神の御在所、鳥居格子のみあり、其の前に香花の供養を備う、(中略)中の壇には宝蔵(※宝殿)経所斗りなり、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

【鳥居格子】「鳥居と格子」なのか「(三輪鳥居から扉を外したような)格子と一体化した鳥居」なのか、または、現在に見られる建具やトラック荷台の名称「鳥居格子」をそのまま当てはめてよいものなのか、中世の言葉とあってどう捉えていいのかわかりません。

【香華】「仏前に供える香と花」が「香華(こうげ)」で、その後に「供養」が続きますから、「上壇にあるのは尊神の墓所」と考えたくなります。また、そうした方が本宮の祭祀を理解する上で無理が生じません。

【宝殿(宝蔵)6年毎の御柱年には、宝殿遷座祭が行われます。この時の神事式次第では、御霊代ではなく「御神輿遷御(せんぎょ)」とアナウンスされます。下社の「御霊代遷御」が頭に染みついているのでつい混同してしまいますが、「本宮では御霊代の在所は神居」なので“理”にかなっています。そのため、宝殿は『画詞』のように、神の乗物──神輿と宝物を納めておく蔵=「宝蔵」としたほうがスッキリします。
 また、古くから千度参りをする道「千度大内(千度大路)」が宝殿の前を横切っていましたから、宝殿は“宝蔵”と理解することもできます。

【経所】中世の経所を説明している本や資料はありませんが、「宝殿と同じ中壇」なら、古絵図に見られる「経堂(後述)」が当てはまります。寛政4年の『諏方大明神本社絵図』では、「十三所遙拝所」の裏にある経堂に「三間余・三間四尺・十二坪」と書き込まれています。

 以上“原点に戻って”といっても、『画詞』が原理なのかはわかりませんが、その中に見られるキーワードに寄せて幾つか気になったことをまとめてみました。

御在所・神陵と御鉄塔(石之御座多宝塔)

石之御座多宝塔
神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』

 『画詞』は僧侶の小坂円忠が編纂したので、前述のような「仏式」の表現になるのはやむを得ません。しかし、江戸時代までの文献を眺めると、これが“共通した本宮観”であることを思わせる記述が多く見られます。特に、「御鉄塔」に関した文に“本宮の役割”を見い出せます。

『諏方上社物忌令之事』

 ここでは「原氏本に依り校合」とある「上社本」を取り上げました。嘉禎4年(1238)とあるので、『画詞』より120年前となります。この中に「仏教まみれ」と解説されるほど習合化された「上段(壇)…」で始まる文があります。

上段は石ノ御座多寶金塔・真言秘密あかたな(閼伽棚)、七千餘(余)巻ノ一切経、如法擁護十羅刹女(らせつにょ)妙典守護、中段は、御寶殿にははんにゃ(般若)守護十六善神再出正(出早)明神垂跡給、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 「神長本」には諏訪七石の御座石を「石之御座と申す」と書いてあるので、「石ノ御座多寶金塔」は、御座石の上に設置した「多宝塔(俗称は御鉄塔)」とわかります。また、次の「閼伽棚」が、『画詞』にある「香花の供養を備う」施設と理解できます。
 ところが、上壇に七千巻の経典があることが窺えても、「台風で転がった」大きさの御鉄塔では収納容器の役割を果たせません。収蔵庫の存在を考えると古文献に出る「石井・石窟」が該当しますが、これが神居にある“謎の石造物”ではないかと考えました。
 これについては、長野日報に掲載されたコラム「上社本宮境内『横穴』の謎」が参考になりました。強い興味を覚えて切り抜きにしてあったものですが、その中から、形状がよくわかる部分だけを転載しました。筆者は、私には“上社の主”とも崇めてしまう諏訪市中洲在住の原直正さんです。

 ここにもう一つ筆者が以前より気になっている構造物がある。それは本宮四脚門から見通した正面山裾にある硯石の、さらに後方にある石組の石室である。一見、古墳の入り口を思わせる形状の石室全体はきれいに整形された石造りで、奥は数枚の平石で塞がれ、子供一人入れるほどの大きさがある。われわれ子供のころは境内でよく遊び、この中に入った者もいる。

 この「構造物」が一切経の収蔵庫である可能性がありますが、残念ながら現在では確認することはできません。

『諏方誌』『信濃国昔姿』

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』にある同書からの抜粋です。

 納経とて例年十月十六日神宮寺僧侶大般若経を書き写しめ神殿の後ろ石井の中に納む、書写の日一字三礼して覆面にて謹写す、浮圖(ふと※仏)氏の行法にて中頃よりこの儀を設く、尊神の冥福を弔するなりと云う、
著者不明『諏方誌』
 西向きにして東の方に向き唐戸より神陵を拝す、神陵の上に鉄の塔有り、(中略)神陵鉄塔の内へは年々十月十六日辰の一天法華経八巻書写を奉納し奉る
乾水坊素雪『信濃国昔姿』

 江戸時代に書かれたこの二書では「弔う・神陵」と表記しています。また、「石井」や他書に挙がる「石窟」という言葉には、前記の謎の構造物が重なってしまいます。

『年内神事次第旧記』

 『画詞』より約百年後に書かれた『年内神事次第旧記』では、本宮の神事については「大宮へ御参有・御正面にて御手幣」などと極簡単な記述で済ませています。一方の『画詞』には、「花会や五月会」の中で本宮境内での神事や流鏑馬が盛大に行われたことが書いてあります。これは、神・仏双方の“立場”の違いが、意図する表現の違いとなって現れたためでしょう。
 以上のことから本宮を「尊神の陵」と考えてみると、違った(常識に捕らわれない)見方で諏訪神社上社の祭祀形態を捉えることができます。

神体山と磐座

 一方、本宮を所謂(いわゆる)「神社」として眺めると、「上壇」には本殿に相当するものが見当たりません。そのため、(たまたま)近くにある○○山や○○石が「神体」として持ち出されることになります。当然“こじつけ”の範疇に入りますから、様々な“謎”という言葉に修飾されることになります。
 明治以降の研究書には(なぜか)「守屋山」が多く登場するので、私には「生き神の大祝がいるのに、なぜ守屋山を持ち出すの」となってしまいます。また、本宮は“前宮以降”の桓武朝に造営されたと考えられていますから、その時代においても、“最先端”の神社に縄文時代の祭祀方法である「磐座」を持ち出してもピントは合わなかったはずです。ところが、現在では逆に“それら”が活発に論議されているので「どうして石が出てくるの」と考えてしまいます。
 やはり、神体の大祝がいて、本宮には「建御名方命が眠る墓所があり」としたほうが無理がありません。

本宮は「尊神の陵」

 現在も、古来からの神事は(前宮ではない)神原で行われています。()でくくったのは、前宮もまた「神陵とそれを祭る神社」と考えられるからです。
 再び“本宮は墓所”に戻ると、畿内に多い「天皇陵」を当てはめることができます。柵で囲われ、拝所には簡素な白丸太鳥居が建ち、祭神はそこに眠る天皇です。日本では、死んだ人間を神として祭るのは珍しくありません。エッと思っても、多くの人が、祭神が明治天皇であることを知らずに(恋愛や学問成就)で明治神宮を参拝していることは疑いないし、伊勢神宮も天皇の先祖を祭る「宗廟」です。

諏訪神社上社「三神」の構成

 中世とは社殿配置も変わり人々の意識も移ろっていますが、江戸時代を例にとれば、神殿(ごうどの)−江戸・前宮−京都・本宮−日光東照宮となるでしょうか。
上社古図「部分」 「神である大祝は、宮田渡の神殿に住み、前宮で神事を行い、本宮の先祖を祭る」のが諏訪神社上社の「本来の姿」となります。このような「三位一体」と考えると、難しく(ややこしく)考えることなく、本宮の姿がハッキリ見えてきます。これで、上壇(神居)の基本的な姿は、幣拝殿の有る無しに関わらず中世から現在まで何も変わっていなかったことになります。

本宮の神事

 本宮で行われる代表的な神事が「蛙狩」です。諏訪明神が先住神を征服した姿を「カエルを射る(ヘビがカエルを平らげる)」という形で演出した(と理解できる)神事ですから、ミシャグジの祭りではありません。年頭に当たって、その故事を再現(再確認)することで先祖を讃えて墓前に手向けたと理解できます。また、本宮の祭祀は仏式が多いのも頷けます。
 一方、大祝の職位式(就任式)などの“ミシャグジ系”の重要な神事はすべて前宮で行われますが、終了後は本宮を表敬参拝します。これを持ち出すと「極端だ」と笑われそうですが、式(旅行)後に「ご先祖様、私たち結婚しました」と墓前に報告するようなものでしょうか。

「神氏の祖霊を礼拝する対象が本宮」

 伊藤麟太朗著『新年内神事次第旧記釈義』があります。〔諏訪神社社殿考(三)〕の章から[宮地博士の上壇に対する見解]の一部を転載しました。伊藤さんが、宮地博士の“本音”を推測して書いた文ということになります。

 誠に博士の烱眼(けいがん)には敬服せざるを得ない。管見によれば本宮は平安朝初期(九世紀)前宮から分出したものである。前宮との連繋(れんけい)を求むるのは當然である。博士は神祇学の泰斗(たいと)ではあったが、當時内務省神社局考證(しょう)課長という官吏であった。この関係でズバリと物の言えない所があった様で、恐らく博士は前宮神原(ごうばら)を本殿とする即ち神(みわ)氏の祖霊を礼拝の対象にすると言いたかったであろう。斯様な点は随所に見られるがこれは博士の言葉のはしはし、文章の行間より推測するの外はない。

 これは「本宮の上壇」についての一文なので、宮地博士は「実は、神原が本殿で本宮(上壇)は祖霊を祭る場所」と考えていたことがわかります。ここで、本宮は先祖の墓所と考えた人がいたことになり、大いに力を得ました。
 前宮にも同様な位置付けをした“論考”があります。ここまで読んでくださった方はごく少数と思われますが、よろしければ以下のリンクで御覧ください。


‖サイト内リンク‖ 神陵と神社『八坂刀売命陵』