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守屋山へ避難した宝殿の神輿 25.6.16

「神輿・御輿」と名称のゆらぎがありますが、直前の資料に合わせました。

神輿避難の道

宝殿遷座祭「神輿」
「神輿」宝殿遷座祭 22.6.15

 天正10年(1582)、諏訪に侵攻した織田軍は、武田家が庇護してきた諏訪神社を焼き払いました。諏訪神社上社では、宝殿に安置してある神輿を守屋山に避難させて難を逃れたそうです。
 乾水坊素雪著『信濃国昔姿』にその経緯が書いてあるので、抜粋して転載しました。別項にも類似した文があるので、併せて紹介します。

 兵災の猛火の中より神輿を舁(かつぎ)出し、当社の南一里余りを隔たる守屋の山中へ舁入奉り、三月より十月迄守屋の山中に守護し奉りぬ、…社内は彼兵火にて神社仏閣諸門廻廊に至迄悉(ことごとく)焼失し掃地と成し、神殿の跡に漸地を清浄して芦萱を以て雨露の覆を造り、十月に至神輿を守屋の山中より舁下し奉り、蘆萱葺の内へ遷し奉り、面々守護成し奉りぬる…
 彼(かの)火災の刻神人等漸々(ぜんぜん※徐々に)神輿を抱連て守屋の山中へ遁(のが)れ行、其年十月に至り社中へ迎奉ると雖(いえども)宮殿なく、芦萱にて葺たる雨除を形のごとく作りて面々に守護し奉る…
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 下の絵図は、諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』から「神宮寺村」の一部を転載したものです。現在の地図と違い「上方向が北」ではありません。諏訪大社上社の神宮寺跡から守屋山方面を描いたものと考えてください。

守屋山「御輿坂」 右上に「守矢大神」とあるのが物部守屋神社奥宮で、ここが守屋山の東峰になります。
 中央部に書き込まれているのが、前述の「神輿の避難」にまつわる地名で、御輿が登った急坂が「御輿坂」、同行した権祝(ごんほうり)が昼飯を食べた所が「権祝昼飯場(ば)」ということだそうです。

 「本当かー」と疑いたくなるような(安易な付け方をした)地名ですが、『上社古図』にも載っていますから、古くから一般に知られていたということでしょう。
 その周囲に「社久保・芦久保」がありますが、これも、神輿を安置する仮屋を造った窪地・その屋根を葺く萱を採取した場所と想像が付きます。

 これらについて、明治13年頃の書上と思われる長野県立歴史館蔵『諏訪郡中洲村誌(写)』に、以下の文を見つけました。

織田信(長?)の為に本社不残焼失す、□□神幣を御輿に移し奉り神官抔(等)供奉(ぐぶ)して葭(葦)の穂を以て小屋を造営して暫時(ざんじ)此山中に住すと云、其邊(辺)三四丁面の葭原其時より今に至り穂は出さるなり、依て其名を穂なしの葭原と称す、又神官の内権祝は其節昼飯を食せんとするに水なし、所々水を求め漸(ようや)く食す、依て其所を権祝昼飯場(ごんぼうりひるめしば)と称す、其外、御輿坂(おこしさか)、御臺所(おだいどこ)抔の字名今に存せり、
『信州デジ蔵』

 「今に至り穂は…」については、「宝殿の穂無しカヤ」の話があります。

宝殿内の神輿奉安の位置上部の天井には守屋山にある「穂無しカヤ」を網代(あじろ)に編んだ物を用いる。この習慣については天正兵乱の際、神輿を守屋山中に避難させた故事の伝承がある。
宮坂光昭著『諏訪大社の御柱と年中行事』
…この萱は神宮寺村の寄進と伝えられているが、現在ではその都度新たに造ってはいない。
長野県教育委員会『諏訪信仰習俗』(昭和47年刊)
宝殿の網代
宝殿の網代

 現在は、守屋山中の「穂なしの葦原」から“純正の葦”を採集してくるのか、または穂が(まだ出てい)ない萱を近場で集めているのかは承知していません。


 平成27年10月末、諏訪大社本宮から武居城址を経て守屋山へ登りました。「神宮寺−守屋山コース(神輿避難の道)」の詳細は、以下のリンクで御覧ください。


‖サイト内リンク‖ 『守屋山−神輿避難の道−』