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守屋山−神輿避難の道(守屋山神宮寺コース) 27.11.1

〔守屋山へ避難した宝殿の神輿〕の別編です。

諏訪大社上社から守屋山へ

 ネットで、上社本宮から守屋山へ登った山行記録を読みました。私には何とか耐えられる(と思われる)約3時間の道のりで、しかも道標が整備されているとあります。そうなると、このコースが「神輿避難の道」に最も近いと考えているので、「じゃー、私もその道で守屋山へ」という話になります。

スタートは上社本宮の駐車場

守屋山神宮寺コース
諏訪大社本宮から武居城址を経て守屋山(27.10.2)

 山では紅葉が盛りと判断した10月29日に決行しました。出掛けに国土地理院のネット地図(1/25000)をプリントアウトするという準備不足の中では、駐車場から歩き始めたのが10時という時間帯になっていました。
 麓では若宮(八幡)、片山では蛭子社を拝礼して林道を進みますが、武居城址へ向かう山道ではすでに心臓がバクバクしていました。

 天正10年(1582)の「神輿の避難」とは、織田軍の戦禍を避けて、上社本宮の宝殿に安置してある神輿を守屋山中に避難させたことを言います。それから約150年後に編纂された『諏訪藩主手元絵図』の〔神宮寺村〕には、それにまつわる地名が幾つも載っています。ここでは、諏訪史談会の復刻版を転載しました。

守屋山「御輿坂」

 中央部の道が入り組んでいるところに、「鳩ヶ峯」や「硯石・臺(台)石」など、その形が想像できる山や石があります。その場所が特定できれば、どのルートをとったのかがわかります。

 絵図の左下にある「城山」が武居城跡ですから、それを右に見ての道までは一致していました。

守屋山神宮寺コース「山神」 しかし、樹林の中では、山の形はもちろん大石と言えるものでさえ見つけることができません。そのまま、(後でわかった)キャンプ場近くの林道に出てしまいました。
 その中で唯一あったのが、写真の石祠でした。絵図にある「山神」としたいのですが、銘が無かったので断定はできません。

(私としたことが)道に迷う…

 実は、地図に載っていない林道に出くわしたのが原因で、守屋山への道を失ってしまいました。「これなら」という特徴ある五叉路も地図にありません。林道を歩きまくって「今日はこれまでか」と諦めかけた時に、沢底に守屋山登山口であるキャンプ場を見つけました。この経緯を書きたいのですが、元岡谷山岳会会員として恥ずかしいので省くことにしました。

13年ぶりに守屋山に立つ

 ということで、守屋山の東峰に立つことができましたが、守屋神社奥宮についてはこのサイトではすでに取りあげているので、これも省きました。その代わり…。
守屋山「お七堂巡りの石」 写真はその脇にある大石で、『諏訪史 第二巻前編』の図録には「守屋山頂とお七堂巡りの石」とあります。石の立地から「お七巡り」の誤伝と考えていますが、資料がなくて…。
 これには多くの文字が彫られていますが、風化が著しいので、読めたのは「赤」の一文字だけでした。“諏訪の赤”なら「八ヶ岳の赤岳権現」と繋がりそうですが、中央部に「佛」とも読めるものがありますから、「南無阿弥陀佛」の「無」とも思ってしまいます。
 一人だけの山頂を3時まで堪能してから、下山を始めました。東峰直下の左尾根に、大熊(おぐま)や真志野(まじの)へ降りられそうな踏み跡があります。この道なら新たな展開が望めそうですが、気力体力時間食料(非常食)が無いという状況はそれを許しません。
 今は下るだけという気楽な歩みですから、今までの経緯を振り返ることができます。その中で、守屋山の沢筋が意外と急峻であることを知ったので、沢筋の“避難路”は無理とわかりました。

守屋山キャンプ場
守屋山キャンプ場

 神輿の仮安置所も、平地の広さより水の確保ができることが最重要です。そのため、今日登ってきた急坂のどこかが神輿坂で、「権祝昼飯場」や神輿が雨露を凌いだと思われる「社久保」は、沢水が豊富なキャンプ場しかないという考えに傾きました。降り立ったキャンプ場の立地を見て、それを確信しました。

「穂なしヨシ」

守屋山キャンプ場 キャンプ場の出口(入口)に、神宮寺生産森林組合が設置した「座禅草の観察遊歩道」とある絵地図がありました。
 下山は楽な杖突峠経由と思い始めていたので「現在地はどこだ」と見回すと、今日最大の収穫を見つけました。何と、左下に「穂なしヨシ群生地」と「みこし へ」が書いてあります。「まむし山」は、『諏訪藩主手元絵図』では〔大熊村〕に載っていたのを思い出しました。
 穂なしヨシと言えば、上社本宮宝殿の天井にある「穂なしヨシで作った網代(あじろ)」です。一方の「みこし(へ)」ですが、これは急坂で難儀したという「神輿坂」に繋がります。地図で確認すると、今日歩いてきた道とわかりました。子どもが「神輿が避難した際に紛失した鏡を杣道で拾った」という江戸時代の記録がありますから、神輿を担いだ人々は「神宮寺−守屋山」の道を登ったことが確実となりました。

守屋山の「穂なしカヤ」 絵地図と違い、穂なしヨシは対岸にありました。近づいても山の端の残照では彩度が落ちた写真しか望めませんが、本当に穂がないのか確認することにしました。
 疲労が蓄積した足が「この写真でも十分」と訴えていますが、「もうここへ来ることはないかもしれない」と、いったん戻ってその前に立ちました。
守屋山の「穂なしカヤ」 確かに穂がありませんが、「ヨシに穂などあったっけ」という貧記憶では、「そうなんだ」と頷くしかありません。
 今はこの場所だけですが、かつては川を挟んだこの一帯に自生していたと思われます。それが『諏訪藩主手元絵図』にある「芦久保」でしょうか。

「みこし(へ)」

 「みこしへ」の分岐には「至神宮寺」の道標があり、やや不鮮明な小道を登ると、すぐに林道に突き当たりました。湿地を避けて左に回り込むと、それが、大きく迷った元凶となった林道でした。

守屋山神宮寺コース この〔神輿避難の道〕に触発されて「私も行こう」と思い立つ人が無きにしも非ずと、私の轍(てつ)を踏まないようにガイド写真を載せました。
 守屋山(キャンプ場)へは字の林道を突っ切るのですが、凹地なので泥濘地(でいねいち)になっています。矢印の辺りにそれを避けた踏み跡があるので、そこから下ります。因みに、私は右の道を選び、無線中継所まで行ってしまいました。(帰りにわかったことですが)正面が守屋山です。

足の痛みをこらえて、奥山の秋を想う

 痛みが出てきた足をかばいながら、急坂では時にカニの横ばいとなってひたすら下ります。黄色しかない紅葉の梢を通して、トンビの鳴き声が聞こえてきます。すぐに「ヒョロロロー」がないのでシカの声とわかりましたから、「紅葉踏みわけ鳴く鹿の」までしか思い出せなかった歌も浮かびます。しかし、秋愁より、迫る夕やみの向こうに感じる真の闇が気になります。実は、懐中電灯を持参していません。

「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき」でした。

 万福寺別院の辺りで、5時のチャイムが聞こえました。もう這っても行ける距離ですから、つい「カラスと一緒に帰りましょー」と唱和してしまいました。しかし、諏訪明神に無事に戻った報告をしようとの考えも、ヨレヨレの足でシートに腰を落とすと、その気はまったく失せました。守屋山頂から、2時間強の歩行でした。

430年前に神輿が避難したのは、守屋山キャンプ場

 神宮寺から守屋山をピストンする中で標題の「430年前…」を確信したのですが、正確を期すために地理院のネット地図(1/25000)を参照してみました。ところが、比較の基準となる沢(川)ですが、上流にはあってもキャンプ場の周辺で消えています。

守屋山キャンプ場 仕方なく、神宮寺生産森林組合『座禅草の観察遊歩道』と『諏訪藩主手元絵図』(下図)を突き合わせてみました。すると、双方の沢三本がほぼ一致しています。他に求める場所がないので、神輿が避難した場所は今のキャンプ場で、『諏訪藩主手元絵図』では「社久保」であると断定しました。

守屋山「社久保」 この場所は、諏方側からは前山と守屋山の間という完全な凹地です。火を焚いても、麓からは煙も見えないでしょうから、長期に渡って隠れるには最適の地です。しかし、この場所を知って避難したのか、権祝(ごんほうり)が水を求めた際に偶然に見つけたのかは不明です。

 守屋山の「御臺所」について調べてみました。以下のリンクで御覧ください。


‖サイト内リンク‖ 『古絵図に見る守屋山(神輿避難の道)』