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「神輿避難の道を歩く」−守屋山登山 神宮寺コース−

神輿の避難 天正10年(1582)。上社本宮の神輿は、織田軍による戦禍を逃れて守屋山中に避難しました。それから約150年後に編纂された『諏訪藩主手元絵図』には、守屋山に、それにまつわる地名が幾つも載っています。

守屋山「御輿坂」
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』〔神宮寺村(部分)

 この絵図を参考に、左下の「片山」から「神輿坂」を経て、「守矢大神(守屋山東峰)」に直登する道をトレースすることにしました。ただし、現在の登山道と一致しているのかはわかりません。

 ネットに、上社本宮から守屋山へ登った山行記録がありました。私には何とか耐えられる(と思われる)約3時間の道のりで、道標も整備されていると書いています。「神輿避難の道」にも重なるので、「じゃー、私もその道で守屋山の登山を」ということになりました。

諏訪大社上社から守屋山へ登山 27.10.29

スタートは上社本宮の駐車場

 山では紅葉が盛りと判断した、あと3日で11月という日に決行しました。しかし、出掛けに国土地理院のネット地図(1/25000)をプリントアウトするという準備不足の中では、駐車場から歩き始めたのが10時という時間帯になっていました。

守屋山神宮寺コース
諏訪大社本宮から武居城址を経て守屋山(27.10.2)

 麓では若宮(八幡)、片山では蛭子社を拝礼して車道を進みますが、武居城址へ向かう山道ではすでに心臓がバクバクしていました。

守屋山神宮寺コース「山神」 絵図では「城山」とある武居城址に寄ってからなおも進むと、登山道脇に写真の石祠がありました。絵図にある「山神」としたいのですが、銘が無いので断定はできません。

 積もった落ち葉にすべる急坂に、何回も喘(あえ)ぎます。すでに核心部に入っていると思われますが、当時とは林相が違うのか、「◯◯石」など特徴ある大岩を見つけることができません。『絵図』との整合性を確認できぬまま、地図に載っていない林道に突き当たりました(下図右上の辺り)

守屋山登山神宮寺コース
国土地理院電子地形図『高遠』(地名・地名・行程を追記)

 地図と相談して林道の右手を進行方向としたのですが、現れた特徴ある五叉路も地図にありません。守屋山への道を失ったまま林道を歩きまくって「今日はこれで下山か」と諦めかけた時に、沢底にキャンプ場を見つけました。
 元山岳会会員としては、「計画にない無線中継所を見学してから、(後で知った)マムシ山を周回して守屋山登山口に着いた」と総括してみました。

13年ぶりに守屋山に立つ

 以上の経過で、守屋山東峰に立つことができました。
守屋山「お七堂巡りの石」 今回は、守屋神社奥宮の脇にある「お七堂巡りの石」といわれている大石を観察しました。
 私的には「お七堂巡りは、(七回廻る)お七巡り」の誤伝と考えていますが、それは置いて、表面に彫られている文字を読んでみました。しかし、風化が著しいので、確認できたのは「この文字」だけでした。

 守屋山西峰まで足を延ばし、一人だけの山頂を3時まで堪能してから下山しました。東峰を通過する際に、直下の尾根に、大熊(おぐま)や真志野(まじの)へ降りられそうな踏み跡に気が付きました。この道なら新たな展開が望めそうですが、気力・体力・時間が無い上に非常食(おやつ)も食いつぶした状況ではそれを許しません。
 今は下るだけという気楽な歩みですから、今までの経緯を振り返ることができます。その中で、守屋山の沢筋が意外と急峻であることを知ったので、沢筋の「神輿避難」は無理とわかりました。

守屋山キャンプ場
守屋山キャンプ場

 神輿の仮安置所も、平地の広さより水の確保ができることが最重要です。
 そのため、今日登ってきた急坂のどこかが神輿坂で、「権祝昼飯場」や神輿が雨露を凌いだと思われる「社久保」は、沢水が豊富なキャンプ場しかないという考えに傾きました。降り立ったキャンプ場の立地を見て、それを確信しました。

守屋山キャンプ場 キャンプ場の出口(入口)に、神宮寺生産森林組合が設置した「座禅草の観察遊歩道」とある絵地図があります。
 下山は楽な杖突峠経由と思い始めていたので「現在地はどこだ」と探すと、今日最大の収穫が…。何と、左下に「穂なしヨシ群生地」が書いてあります。穂なしヨシと言えば、上社本宮宝殿の天井にある「穂なしヨシで作った網代(あじろ)」です。

 その下の「みこし(へ)」ですが、これは急坂で難儀したという「神輿坂」に繋がります。「子どもが、神輿が避難した際に紛失した鏡を杣道で拾った」という江戸時代の記録がありますから、神輿を担いだ人々は「神宮寺−みこし−守屋山」の登山道をたどったことが確実となりました。
 さらに、「まむし山」が『諏訪藩主手元絵図』では〔大熊村〕に載っていたのを思い出し、予定外の林道歩きは「まむし山を周回した」と理解できました。

「穂なしヨシ」

守屋山「葦久保」 絵地図と違い、穂なしヨシは対岸にありました。近づいても山の端の残照では彩度が落ちた写真しか望めませんが、本当に穂がないのか確認することにしました。
 疲労が蓄積した足が「この写真でも十分」と訴えていますが、「もうここへ来ることはないかもしれない」と、いったん戻って橋を渡り、その前に立ちました。

守屋山「穂なしカヤ」 確かに穂がありませんが、「ヨシに穂などあったっけ」という貧記憶では、「そうなんだ」と頷くしかありません。
 今はこの場所だけですが、かつては川を挟んだこの一帯に自生していたと思われます。それが『諏訪藩主手元絵図』にある「芦久保」でしょうか。

「みこし(へ)

 「みこしへ」の分岐には「至神宮寺」の道標があり、やや不鮮明な小道を登ると、すぐに林道に突き当たりました。湿地を避けて左に回り込むと、それが、大きく迷った元凶となった林道でした。

守屋山神宮寺コース この〔神輿避難の道〕に触発されて「私も行こう」と思い立つ人が無きにしも非ずと、私の轍(てつ)を踏まないようにガイド写真を載せました。

 守屋山(キャンプ場)へは字の林道を突っ切るのですが、その先は凹地の泥濘地(でいねいち)なので道はありません。矢印の辺りにそれを避けた踏み跡があるので、そこから下ります。因みに、私は林道の右側を選び、無線中継所まで行ってしまいました。(帰りにわかったことですが)正面が守屋山です。

足の痛みをこらえて、奥山の秋を想う

 痛みが出てきた足をかばいながら、急坂では時にカニの横ばいとなってひたすら下ります。黄色しかない紅葉の梢を通して、トンビの鳴き声が聞こえてきます。すぐに「ヒョロロー」がないのでシカの声とわかりましたから、「紅葉踏みわけ鳴く鹿の」までしか思い出せない歌も浮かびます。しかし、秋愁より、迫る夕やみの向こうに感じる真の闇が気になります。実は、懐中電灯を持参していません。

「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき」でした。

 万福寺別院の辺りで、5時のチャイムが聞こえました。もう這っても行ける距離ですから、つい「カラスと一緒に帰りましょー」と唱和してしまいました。しかし、諏訪明神に無事に戻った報告をしようとの考えも、ヨレヨレの足でシートに腰を落とすと、その気はまったく失せました。守屋山頂から、2時間強の歩行でした。