諏訪大社と諏訪神社トップ / 上社雑学メニュー /

『諏方大明神画詞』に見る藤嶋明神 '20.6.25

■ 何回か書き直しています。〔25日〕版が、ほぼ最終稿となります。■ ここでは、藤嶋明神を「藤島明神」と表記します。

諏訪七島

 『信濃國昔姿』から「七嶋之事」を転載しました。正真正銘の島から、池の築島である宮島までバラエティに富んでいます。

宮島 大宮内・福島・飯島・白狐島 赤沼村藤嶋 神宮寺村・高島・浮島 下諏方神鎮場所
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 ここに「藤嶋」が登場します.。現在の大字(おおあざ)「中洲」から、その他の島も、元々は砂州だったことがわかります。

藤島

諏訪七島「藤島」 田中阿歌麿著『諏訪湖の研究』に載る、「享保六年(一七二一年)の諏訪湖」とある絵図の一部です。
 ここには「高島・白狐島」は島としてありますが、「福島・飯島」は村名として書いています。
 ところが、肝心の「藤嶋 神宮寺村」が見当たりません。これでは話が進まないので、該当する区域(島)を赤く塗り藤島を書き入れました。この時代では、すでに「島」と言う意識は無かったのでしょう。

 以上、お膳立てが整ったので本題に入ります。

藤島明神

 藤島明神というと、「洩矢神に勝利した諏訪明神が使った“武器(藤)”が根付いて…」という話が浮かびます。その原典である『諏方大明神画詞』から「藤嶋明神」の段を転載しました。

(そもそも)この藤島の明神と申すは、尊神垂迹(すいじゃく)の昔 洩矢の悪賊神居をさまたげんとせし時 洩矢は鉄輪を持してあらそい、明神は藤の枝をとりて是を伏し給う、ついに邪輪を降ろして正法を興す、明神誓いを発して藤枝をなげ給いしかば即ち根をさして枝葉をさかえ、花蕊(ずい)あざやかにして戦場のしるしを萬代に残す、藤島の明神と号する此のゆえなり、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第一巻』

 この段は藤島明神の謂われを書いたもので、早い話が「諏訪明神が、洩矢と争った地に戦勝記念樹を植えた。その藤を神格化して祀ったのが藤島神社」となります。しかし、藤明神(藤神社)や藤枝明神(藤枝神社)ならともかく、なぜ藤「島」なのかが疑問として残ります。

藤島明神を人格神とするのは誤り。中・下十三
所では「台所・竈・廊」明神を祀っている。

 「藤島明神の段」についての論評は幾つかありますが、私の素朴な疑問「なぜ藤なのか」に触れたものはありません。仕方なく自分で用意したのが、それについての答えを出せる『七嶋之事』と『享保六年の諏訪湖』です。

「洩矢は鉄輪を・明神は藤の枝を」

 よく、「鉄輪と藤枝は、○○と△△を表すもので…」という論考があります。しかし、その「鉄輪と藤枝」は、単純に、絶対に有利であるはずの鉄器に木器が勝つという、諏訪明神がいかに強大であるかを比喩するアイテムです。また、諏訪明神の縁起ではなく、藤島明神(藤島神社)の由来ですから、それに理屈を付けて語ることに意味があるとは思えません。

洩矢と明神が争った地が藤島

藤島社
「藤島社旧鎮座地」国土交通省『国土画像情報』

 ここで、洩矢と明神が争ったのが現在の諏訪大社上社に近い島──藤島とすれば、もう補足する必要はありません。
 つまり、たまたま手近にあった藤の枝で戦ったというだけで、鉄より弱いものなら何でもよかったことになります。

 むしろ、ススキや梶の枝を使ったほうが(諏訪明神の象徴として)馴染みます。それを藤にしたのは巻きつくその木姿がヘビに似ているためでしょう、と話が徐々に軽くなってきたので、取りあえずこれで終わらせることにしました。

藤島と藤島明神

諏訪七島「藤島」
長野県立歴史館蔵『信濃国諏訪郡明細図(明治15年)』(一部)

 「戦場の印を萬代に残す」といっても、藤は、やがては朽ち果てます。そこで、その藤を祭神にした神社を創建したのでしょう。
 その時に、「諏訪明神戦勝記念地──藤島」として定着していた「藤島」の名を神号としたと考えることができます。これが、「藤島の明神と号する此のゆえなり」ということでしょう。