諏訪大社と諏訪神社(附 御柱祭)トップ / 上社雑学メニュー /

宝殿・四脚門―石段―神楽殿ラインの謎 本宮境内

 本宮の社殿配置は、天正10年に織田勢に焼き払われたのを境に大きく変わっています。その後も境内の拡幅や社殿の新築・改築・廃絶が続きましたから、焦点を当てる時代によっては「これこれこうだから、こうだ」が見当違いになることがあります。

大祝の参拝路

 諏訪大社の研究者は、古文献の記述から、中世の本宮には「両宝殿の前に楼門(御門屋)があった」としています。具体的な景観は「下社の社殿配置が参考になる」とあるので、春宮・秋宮を参拝した方は思い返してください。現在は、その楼門に相当するのが四脚門でしょう。

御門屋跡 重要な神事は、昔は大祝、今は宮司を先頭にして、左写真の石段を登り斉庭(ゆにわ))に入ります。
 「明治34年」の銘があるこの石段を、神楽殿前の石段中央に立ち、四脚門を正面にして撮ったのが左の写真です。石段が左へずれているのがわかるでしょうか。

御門屋跡 逆に、四脚門の中央を背中にした布橋から神楽殿を見下ろすと、当然ながら石段は右に寄ります。
 その原因が左に一部見える天流水舎の位置にあることは明白ですが、なぜこのような配置にしたのかがわからないので、結局は「?」で終わってしまいます。


 ある日、「諏訪大社ではどう見ているのか」と、通り掛かりの神職に尋ねてみました。この「ズレ」は諏訪大社でも認識しているようで、「神様の正面を避けるのが根本なので、石段をずらした(のでは)」と返ってきました。「宝殿の通路もずれています」と言うので、早速その前に立つと、確かに、それぞれの板橋が両宝殿の間に向かう方向で斜めになっていました。10年通っていますが、まったく気が付きませんでした。