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「蛙石」諏訪七石 Ver 24.1.12

 「蛙石」をネットで検索すると、ありとあらゆる石ガエルがあらゆる場所にあることを教えてくれます。昔から知られていて名所・名物になっているものがほとんどですが、最近では「無事カエル石」が各所に置かれ、つい立ち止まって見入ってしまいます。
 「諏訪七石の一つ蛙石」はよくある「七○○」の一つですが、何分にも諏訪限定なので、「諏訪」をキーワードに加えないと表示しません。そのネットで得られる情報も、その所在地が確定できていないこともあって乏しいものになっています。

文献に見る蛙石

 今では「幻の蛙石」となっていますが、ここでは、取りあえず諸先生方が述べた推定地を並べてみました。出典は、田中積治編著『諏訪の七石七木』です。この本に寄稿した宮坂清通さんの『諏訪の七石について』から、関係する「蛙石」だけを抜粋して表にしました。

江戸期以前の文献

諏訪上社物忌令之事(上社本 嘉禎年間) 蛙石───
諏訪上社物忌令之事(神長本 文明年間)甲石社内に在り、闇夜にこの光星の如く輝く(マタタク)
諏方かのこ(小巌在豪 宝暦6年)蟇石鉄塔の下
信濃国昔姿(乾水坊素雪 文政2年)蟇石大宮の内 神前の西北に是有りこれ七石の其の一也、池のようにして玉垣の内に有り、且又蓮池の中に天竜川上の社是有り、今弁才天の社是なり、
信濃奇勝録(井出道貞 天保5年)蛙石社中
画入七石之事蛙石社内
信濃国一宮諏訪大明神由来記蛙石鉄塔の下

 「蛙・蟇」と名称は違いますが、他の六石との関係からすべて同じものを指しているのは間違いありません。場所は、現在で言う神居にあった「鉄塔(御坐多法塔)」の下と、広範囲な「境内」とに分かれます。

明治・大正の文献

諏訪神社略縁起(明治35年)蟇石諏訪上社内
諏訪神社由来略録(明治45年)蛙石鉄塔内
諏訪神社誌 第一巻(大正15年)蛙石社中

 この三書は、『国立国会図書館デジタル化資料』を参照しました。

昭和の文献

諏訪史蹟踏査要項(諏訪史談会)蛙石茅野市粟沢
諏訪史第二巻前編(宮地直一 昭和6年) 蛙石上社境内蓮池の中

 ここに載る「粟沢」と「蓮池」について、少し補足してみました。

〔粟沢説〕
 「粟沢橋より南方約二百米丘上。地籍 玉川字蛙石六百七拾弐番地。苔むした天然の蛙の容をなし長さ四尺高さ二尺八寸、東方に向き古来より諏訪七石の一として伝承されている」と説明がある蛙石ですが、その所有者が『諏訪の七石七木』の著者なので“参考まで”としました。なにしろ、諏訪には「硯石や蛙石」が複数あります

〔蓮池説〕
 宮地博士は、『信濃国昔姿』に載る「神前の西北」と「池のように…玉垣の内」から、蓮池を当てはめたのでしょうか。

蓮池にある、オカケ石と蛙石

おかけ石(御掛石)
『復原模写版上社古図』

 江戸初期作と伝わる『上社古図』では、蓮池の片辺に「ヲカケ石(御掛石)」と書かれた玉垣に囲まれた石が描いてあります。
 (カエルと)池辺という絶好の位置ですから、これを(かつての)蛙石と考えれば大変都合がよくなります。しかし、私の“都合”で名前を改変することはできません。

 明治34年発刊の渡辺市太郎編『信濃宝鑑 六巻』に、〔諏訪神社上社之景〕があります。

諏訪神社上社之景
長野県『信州デジ蔵』

 ここに描かれた蓮池は誇大表現そのものですが、その後に境内地の拡幅で移転しましたから、スケールは小さくとも同じような形であった可能性はあります。
 「蓮池」なのでハスを描き入れたと思われる池には“カエルの形をしたもの”があり、「蛙石」と説明しています。

 現在も、池中の同じ位置に“石”があります。この石を、平成24年の「御符渡(みふわたし)」を見学した帰りにじっくりと観察してみました。現在の蓮池は、渇水と言うより凍害を防ぐために水が抜かれているので、ほぼ全体像が確認できました。

蛙石? (何かの間違いで)天地が逆になっている可能性もありますが、この形状では、誰もが腰を掛けてみようとは思わないでしょう。「もちろんカエルにも見えません」と一旦は書いてみましたが、…睨(にら)めっこしているうちにカエルに見えてきました。
 通常は水面下で見えない(色が変わっている)部分の穴が目に見えます。カエルと言うよりサンショウウオ、…と言うより鏑矢の蟇目が近いかもしれません。ところが、写真まで紹介したのにもかかわらず、結局は「苔が穴のように見えた」とコケたような話で結ぶ羽目になりました。

蛙石と蛙狩

 中世の文献から関連するものを抜き出してみました。まずは、『諏方大明神画詞』の〔蛙狩〕の段です。

 斧鉄を以て是を切り砕けば、蝦蟇(ガマ)五ッ六ッ出現す。毎年不闕の(ふけつ※欠くことがない)奇特(※不思議)なり。壇上の蛙石と申す事も故あることにや、神使(おこう)小弓小矢をもて是を射取りて、各串にさして捧げ持ちて生贄の初とす。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 「壇上」は現在の「神居」と思われるので、そこに蛙石があることが窺えます。

 次は、『年内神事次第旧記』の「蛙狩」です。

(抜粋) 蝦蟇(がま)有て六人神使(むたりのこうのと)殿一つゝ射させ申、是は蝦蟇神之例なり、取たる時は御先を開ける。
武居正弘編『年内神事次第旧記』

 『諏訪上社物忌令之事』から〔七石之事〕です。ここでは、御座石を説明した文にしました。「御座石」と蛙石に密接な関係があることが知られています。

御座石と申は正面之内に在り、件之(くだんの)蝦蟆(がま)神之住所之穴龍宮城え通(ず)、蝦蟆神を退治、穴破(り)石以(をもって)(ぐ)、其上に坐玉(たまい)、名を石之御座と申也、口伝之在り、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 ここに出る「間」ですが、当時と現在の意味が同じとは限らない上に、「口伝(くでん)」とあって、文字の一つ・文献一つで「蛙石」を展開するのも無理があります。しかし、それをもって、ここで終止符を打つのは私の信条に反しますから、無理を承知で推論を膨らませてみました。

蛙石から御座石へ

 現代の解釈で「あいだ」と読むと、諏訪明神が座っている間だけ「石之御座」と呼ばれたことになります。明神もお尻が冷えますから永久に腰掛けているわけにはいきません。その代役として何かが置かれ、その後「御鉄塔」が安置されたのでしょう。時代の変遷で石造りに替わった“鉄塔”は「石之御座多宝塔」と呼ばれましたから、何か符合してしまいます。本宮に御座石が存在しないことや、「鉄塔の下が蛙穴を塞いだ石」と説明することにも無理が生じません。

 一方、今の神居に当たる場所は、地形から判断すると、ある時期に御手洗川の鉄砲水による土砂で埋まった可能性があります。地中とあっては「御座石」になりませんから、それを契機に仏法による地表からの“封じ込め作戦”が行われたと考えると、それが御鉄塔であり御坐多法塔とも言えます。

蛙を供える磐座

 江戸時代の紀行文になりますが、菅江真澄が書いた『すわの海』を転載しました。

 正月朔日の日の神事は、此あたりの凍を斧鉄もてうちくだきて、蛙二ツとりていわくらに備て小弓して射給うとなん、はた、氷なきときは、きざはしに蛙いづるという、
信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』

 「蛙を供える磐座」が「蛙石」と(も)思えます。ただし、「なん・いう」は推測の表現なので、聞いた(読んだ)話をまとめたことがわかります。

 以上、“超発想”を含め幾つかの事跡を挙げてみました。