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なぜ「金井社」が諏訪大社の境内に 21.1.14

 下写真は、勅願殿と右に一部写っている宝物館の間を山側に向けて撮ったものです。塀の後方に「四之御柱」が見えます。

金井社 宝物館裏の石垣上に目を向けると石造りの鳥居と祠があり、鳥居額を読むと「金井社」です。
 境内にある案内絵図には載っておらず、その名前からして諏訪大社につながっているとは思えませんから何とも不思議な存在に映ります。

鹿人と金井社

 正月休みに読もうと、図書館から『伊藤富雄著作集』を借りました。その中に、35ページにも渡った、金井氏の職掌である「鹿人(ろくびと)」と諏訪上社の巫女の頭領「大市(おおいち)」を解説した「諏訪大社と金井社の話」を見つけました。
 「鹿人」職は、今風で言えば「諏訪神社のお抱え料理長」でしょうか。もちろん、大祝個人の料理ではなく神饌の調理です。これを「神長官守矢史料館で展示している御頭祭(酉の祭)の料理は、鹿人が作った」としたほうがわかりやすいかもしれません。残念なことに、金井氏が鹿人を世襲したために、「鹿人家に伝えられた野禽野獣調理の故実や秘伝は、(中略)明治四年の維新改革令により、鹿人職の廃職と共に一朝にして滅び去った」そうです。


金井社 上写真は平成21年元旦のものですが、目隠しのような塀があるので、平成17年9月に撮ったものを“蔵(HD)出し”しました。
 写真ではわかりにくいので補足すると、山から流れ出た小さな沢は、四之御柱の右手前から左に曲がり、石垣に沿って手前の樋(とい)まで続いています。
 この沢筋が、左上の石垣からもわかるように旧境内地との「境」ですから、右が金井氏の土地で、上部から原野・金井社・畑と続き、石垣の下に「大市屋敷」と呼ばれた金井氏の宅地があったことになります。


金井社 明治39年、諏訪上社(大社)は、人手に渡った金井氏の土地を買収し境内地としました。ところが、祝神があるために金井氏名義として残っていた土地だけが買収できなかったそうです。
 祝神の引越は、「新村社」の例もあるので不可能なことではありません。「なぜ強引にでも手に入れなかったのか」という疑問が残りますが、諏訪神社縁の社家とあって遠慮したのでしょう。それとも、わずか7歩(坪)の土地ですが、金井氏7人の共同名義とあるので全員の了解を得ることができなかったのかもしれません。「諏訪大社と金井社の話」では、以下のようにまとめていました。

 金井祝殿(いわいでん)の敷地原野七歩は、恰(あたか)も海中の孤島の如く、諏訪神社社地に取巻かるるの奇観を呈するに至った。もし単純普通の関係において、わずかばかりの民有地が、社地の真ん中に介在するとすれば、誠に不自然の感なきを得ない。しかし、これは太古から明治維新に及ぶまで、幾千年か諏訪上社に奉仕し来った鹿人職や大市職の祝神なので、信仰上からみても、歴史上からみても。何等の矛盾も不自然も存しないのである。否、むしろこの事実は、諏訪神社祭祀と社人との関係を具体的に表現し、上代諏訪文化の好個の記念である。

 私なら、「ウチの氏神様は諏訪大社の中にあるんだよ」と大々的に自慢してしまいます。しかし、参拝自由の境内でも「諏訪大社の私有地」ですから、厳密には「不法侵入」しないとその前に立つことはできません。通常は下から「遙拝」するにしても、参拝や掃除・御柱の建て替えなどは、諏訪大社へ「各種の申請」をしなければならないのでしょうか(と、チビたことをまた書いてしまいました)。
 追補になりますが、前書には「祠は御柱年毎に建て替えていたが(※式年造営)、昭和24年に金井一族が高さ八尺に余る石造りの祝殿を建立した」とありました。

 

 2月2日、最終日となった諏訪市博物館の正月特別公開「諏方社遊楽図屏風と御枕屏風」展に出かけました。遊楽図の右端を見ると、四之御柱の右に「大いち」と書かれた家(屋根)を見つけました。


‖サイト内リンク‖ 諏訪大社の境内拡幅に伴う“強制収用”「新村社」