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“土石流で埋まった”境内(境内傾斜の謎) 23.4.20

南参道の坂 御頭祭で、本宮から前宮へ向かう遷座の行列です。数値化した勾配を示すことはできませんが、行列最後尾の神輿と二之鳥居の位置から「参道がかなりの坂道」あるのがわかるかと思います。
 「横T字」の道路標示がある場所が最も低く、「鞍部」と図示したように、ここから再び上りとなり三之鳥居で頂部を迎えます。二箇所の頂部は、それぞれ「御手洗川」と「女沢川」の堆積物で高くなった部分で、最低部から見ると天井川になっています。

勅使殿と五間廊 代わって本宮の境内です。傾斜がよくわかるので「勅使殿」と「五間廊」の写真を用意しました。案内絵図の正式参拝路「」に“素直に”従うと、この前を左に横切り、「石段の上」に建つ二之鳥居を仰いでから、Uターンする形で布橋から宝殿へ向かいます。このように、境内でも二之鳥居を頂点として神楽殿前までが坂になっています。
 冒頭の写真からここまでを“集約”すれば、(写真と言葉で長々と説明したものが一切無駄となった気がする)「二之鳥居を頂点にして、南参道側と境内の土地が下がっている」となります。

 この地形は「御手洗川の鉄砲水による土石流」で“成立”したのは間違いありません。現在も長雨が続くと、出早社(いずはやしゃ)の左側の斜面(土手)から“伏流水”が沁み出てくるので、埋まった分だけ御手洗川が高くなっていることがわかります。ところが、機会ある毎に古文献を読んでいますが、「台風で境内の木が根返った」ことはあっても、「土石流で埋まった」記述を見つけることができません。これだけの災害ですから、鎌倉時代以前の文献に残らない時代に、今我々が見ている地形になったのでしょうか。

『上社古図』に見る境内地

 江戸初期作と伝わる『上社古図』があります。『上社古図』はオリジナルとその写本が幾つかありますが、ここでは神長官守矢史料館蔵『復原模写版上社古図』から、その一部を紹介します。「二之鳥居」の周辺を見ると(省略した可能性もありますが)現在ある石段が描かれていないので、南参道と本宮境内は“紙に書いたように”高低差がありません。そのため、御手洗川を渡って鳥居をくぐると、石垣上にある布橋へは「橋で上がる」ことになります。

『上社古図』石車橋 橋の周辺を拡大すると「石車橋」とあり、橋の下には「今ナシ」と書かれています。本来の「今ナシ」は絵図に貼り付けた付箋で、「絵図が描かれたときは存在していたが、今はない」という“注釈”です。この絵図は模写なので石垣の上に直接書かれていますが、付箋として見ると(石垣ではなく)橋の説明になります。
 そのため、付箋を貼った時代は、すでに「現在と同じ景観」だったということになります。この状況から、土砂で埋まったのは「絵図が描かれた以降・付箋を貼った時代以前」ということになります。

布橋の石垣

 『諏訪市史』から〔諏訪神社上社境内遺跡−中段の調査−〕の一部を転載しました。

 布橋の下は石垣状の築堤であったとみられる。積石が一部露出したが、全面的に発掘できないので推定のみである。

「流鏑馬馬場」

 境内と同じ高低が、今の「宮下道」にも見られます。

馬場跡

 かつては、ここで流鏑馬と笠懸が行われていたそうです。しかし、文献には「流鏑馬は一之鳥居と二之鳥居の間で行われた」とありますから、流鏑馬馬場に限っては、写真では玉垣の内・境内の中に設けられていたと私は考えています。もちろん、広い場所を必要とする「笠懸」は境外にあったのでしょう。
 いずれにしても高低差があっては馬場として成立しませんから、「流鏑馬神事」が盛んに行われた中世では、「まだ」平地だったことになります。

駒形屋の古石垣

「駒形屋」本宮境内 私が堆積物とする傾斜地を前景に「駒形屋」を撮ってみました。どう見ても「この辺りは元々の地形」というより、「土砂で埋まって高くなった」とする方が自然です。唯一ある左の大木が「その頃」のものと思えますが、その他は近世のものです。玉垣の際にも大きな木がありますが、こちらはなぜか太い根が地上に大きく現れています。普通なら単なる「根上がり」で片付けますが、この場所では「太枝の下まで埋まったために、枝から根が生えて“根”に変わったと考えてしまいます。

駒形屋の石垣 駒形屋に近寄ると、石垣が二重構造です。下の石垣は見るからに「古垣」です。この古垣の場所に対応できるのは、『上社古図』では「輪蔵」しかありませんが、それには石垣は描かれていません。その遺構なのかは別としても、神楽殿がある下壇を基準にするとかなり高い石垣になります。

 寛政四年(1792)の『境内図』では、この場所に駒形屋があるので、二度三度の堆積があって嵩上げされた駒形屋の石垣としたほうがよさそうです。当初は「埋まった輪蔵の石垣上部が残っていた」と色めき立ったのですが、「高楼でしかも高床式輪蔵」となるので、この考えは埋め戻すことにしました。

土砂が堆積した時代は…

 「土石流に埋まった本宮境内」は古文献には見えないので、『上社古図』と中世「流鏑馬」の文献を挙げるだけに終わりました。それから得たのは「戦国時代から江戸中期の間の災害」という大ざっぱな結論で、それも推察に過ぎないというものです。
 本宮の境内を上り下りする度に感じていた「わだかまり」ですが、これ以上の進展は望めないことがわかっても、私としては「けじめ」をつけることができました。

『満実書留』にある「新河ヨケ」

 神宮寺の「たくろ」さんから、「土石流堆積の参考になるかどうか」としてメールが来ました。

『満実書留』の文明3年正月17日の条に夢のなかの話として
大宮御正面内新河ヨケ有内鳥居立申候所也、出家来念仏、正面東内ニテ申後法華ノ大事卅二道ト云リ、又余之出家御正面ヨリ出来給候、
と、御正面の位置と地形の考察にかかわる「川除」の存在がみえています。

 私も『満実書留』には目を通していましたが、「川除」の意味がわからなかったので“放置”していました。そこへこのメールですから、図書館で『諏訪史料叢書』にあるその全文を読み直し、「川除」の意味も調べてみました。

・文明3年は1471年で、まだ戦国の世の中でした。
・茅野市『茅野市史』の江戸時代の章に「川除けとは、堤防を堅固にし川浚えをすることをいうが、堤防そのものをいうこともあった」とありました。

 この条は「夢の中の話」とあるのでどう捉えてよいのかわかりませんが、「御正面」は「今で言う神居」ですから、その中に「新しい堤防があり」その場所は「内鳥居が立つ場所」となります。これは神座の中心に土砂が流れ込んだので、土砂の撤去と川の流れを戻す堤防を造ったと解釈してみました。何か「新河ヨケ有」の五文字を“拡大解釈したような推理”ですが、「御正面の中にある御座石や蛙石の所在が不明なのは、土砂に埋まったため」と考えれば、…何か理屈に合います。

 参考までに、後半の「出家来念仏…」にふりがなを加えたものを載せてみました。

出家(※僧)来て、念仏正面東内にて申した後、法華の大事卅二道(※三十二相)と云り、又余之出家御正面より出来給候(たまいそうろう)、御年は四十斗(ばかり)に見させ給いけり、

‖「土石流で埋まった境内」の続編です。‖ 『守矢満実書留』