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北口参拝路と北鳥居

北口参拝路(北参道)

 人によっては(とは、私のことですが)、参道の右側に連なる土産物屋の呼び込みと視線に耐えかねて、その反対側を小さくなって境内に向かいます。この参道は絵地図の下部にある「北参道」のことで、これにはまだ描かれていない新設の大鳥居をくぐると、正面に幣拝殿への最速最短の石段が見えます。

諏訪大社本宮境内案内図
北参道

 ところが、一之御柱の手前で、「左折」する参拝順路の標識が現れます。ここで、神社の指図に素直に従う人と、今来た参道の直線上にあたるごく自然な流れの先にある石段に向かう人とに分かれます。両者の性格を判断すると、…誰か分析してください。

 諏訪大社が強制するというか推薦する通りに左折し、絵図上では二之御柱を過ぎてから右・右と回り込み「布橋」を通ります。正面に、(木の陰になって気がつかない)一之御柱を見、クランクを経ると前述の最速最短の石段が合流します。その先の突き当たりを左折して門をくぐると、ようやく核心部の境内に入ることができます。拝所は左方ですからまた左折して、と境内をくまなく巡るのが正式な参拝路です。早く言えば、「」字の参拝路とも言えます。

 これは、正面の石段を利用すると、全く顧みられなくなる境内各所の神から「不公平だ」との告げ口(お告げ)があったからではありません。神社の波瀾万丈の歴史が複雑にさせたのです。本宮の滞在時間を(少し)長くするのに一役買っているので、ここは一つ、諏訪大社の指示に従いましょう。

“北口”を、昭和初期の地図で見る

北口・南口 昭和6年とある五万分の一地形図『高遠』を見ると、現在の県道はなく、案内絵図では下部の玉垣に沿った道が幹線道路になっています。
 つまり、北参道そのものが存在しないので、当時の人々は三方の道からそれぞれの鳥居をくぐり、表参道となる南口から境内に入ったということになります。


昭和22年の北口参拝路

 戦前までは南鳥居がある南口(参道)が一般的でした。それが太平洋戦争が始まると車での祈願や参詣が増え、駐車場がない南口は大混乱したそうです。
 それに対応して新たに北口を開設したのですが、敗戦と同時に中断放棄されてしまいました。生活が安定すると観光として来る人が増えたために整備され、駐車場完備の広い北口は表参道とも言えそうな現在の姿になりました。
細野正夫・今井広亀著『中洲村史』〔北口〕を要約

北口・南口 国土交通省『国土画像情報』から、昭和22年の航空写真を用意しました。県道は開通していますが、北参道はまだ工事中のように見えます。
 この参道が「北口」として完成し、その後、使い勝手がよいことから表参道のように使われるようになったということになります。


北口(参道)に鳥居が… 15.4.20

 諏訪大社本宮前に工事の塀が出現したのを見て、「温泉のボーリング」と一瞬思いました。境内の手水には温泉が引かれ、近くには区民専用の「神宮寺温泉」もあるので、まるっきり突飛な発想とは言えません。それに、社寺の境内に温泉施設があるのはそう珍しくありません。

諏訪大社本宮鳥居 諏訪大社へ寄る度に塀の中をのぞくのですが、相変わらず何の工事なのかわかりません。ある時、境内から見れば裏側に当たる正面に廻ってみると、境内の写真に鳥居が合成された、今風の完成予定図がありました。
 「そういえば、この北参道には鳥居が無かった」と改めて思い知らされる中で、柱が立ち貫(ぬき)が掛けられると、俄(にわか)にそれらしくなってきました。

 先日のニュースで、トレーラーから長さ14メートル重さ25トンという笠石を下ろしている映像を見ました。雨の中で額束(がくつか)がセットされ、その長大な笠石が最上部に設置されると、総重量100トンという白御影石の鳥居が出現しました。しかし、神社には付き物とはいえ、まだ“異様な物体”という段階ですから、馴れるまでは時間が掛かりそうです。

諏訪大社上社北鳥居 5月24日の信毎(信濃毎日新聞)諏訪版に鳥居の写真が載っています。そろそろかな、と思っていましたから本宮の鳥居と直感しました。
 改めて「諏訪大社上社本宮に大鳥居」と見出しがある本文を読み進めると、奉納者と関係者約140名が除幕式を23日に行ったとありました。また、気になっていた奉納者の「三平」は、都内でホテルやレストランなど約70店を展開していることも知りました。