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納経の道「潜り戸口」 本宮境内

鉄塔(石之御座多宝塔)

諏訪神社上社神居 諏訪神社上社本宮の聖域には「鉄塔」がありました。寛永8年に石製の「石之御座多宝塔」に替わりましたが、相変わらず「鉄塔」と呼ばれたので、ここでも鉄塔で進めます。
 現在は、諏訪市湯ノ脇にある温泉寺の多宝塔の中に納められているので目に触れることはありませんが、神長官守矢史料館蔵『模写版上社古図』にはその鉄塔が描かれています。

 以下の史料は、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』から転載しました。

 「寛政頃(1789〜95)の人の記かと思わるる」と解説がある『諏方誌』に、今で言う「神居」に大般若経を納める記述があります。

(前略)納経とて例年十月十六日神宮寺僧侶大般若経を書き写しめ神殿の後ろ石井の中に納む。書写の日一字三礼して覆面にて謹写す。浮圖(ふと※仏)氏の行法にて中頃よりこの儀を設く。尊神の冥福を弔するなりと云う。

 一方、「乾水坊素雪が文政二年撰述」とある『信濃国昔姿』の三箇所に、『諏方誌』と同じような「10月16日・納経」が見られます。

一 諏方宮本社拝殿
西向きにして東の方に向き唐戸より神陵を拝す。神陵の上に鉄の塔有り。(前略) 神陵鉄塔の内へは年々十月十六日辰(※朝8時)の一天法花(法華)経八巻書写を奉納し奉る。これ秘密山(※山号)如法院寺役の第一なり。

一 潜り戸口
大黒殿の後高塀東の角にこれ在る所は十月十六日朝奉納経の節明(開)る也。これ鉄塔内陣の入口にて年内に一度明る斗(ばか)り也。鍵預かり茅野式部なり(宮田渡大祝明役小別当)。

一 経堂
出拝(早)の社より左の方の道を登る。凡そ十間斗りにして右の方に有る堂なり。此所にして春より十月迄法華を書写し、十月十日より経衆大勢にて法式有ること七日。十六日辰の一天奉納経有る也。此節十五日夜八つ(※2時)頃より御領主様御名代御出有り。寺社一統相詰めるなり。此朝貴賤群集し参詣多し。秘密山如法院預り所。

 「石井の中・鉄塔」「大般若経・法華経」の違いがありますが、「10月16日に鉄塔に納経した」というのが骨子です。
 『信濃国昔姿』では、「大黒殿の後高塀東の角」とある納経をするための入口があることが書かれています。「大黒殿」は現在の「大国主命社」ですから、背後の塀のどこかに入口があったことになります。規模は、「潜り戸」と書いていますから鍵はあっても小さな扉という程度でしょう。

潜り戸口

 「高塀東の角」と具体的な方角と場所が示されていますが、諏訪大社独自の方角なので、コンパスの針からは特定できません。参考に、他の社殿の方角を挙げてみました。

潜り戸口 「神楽殿・天水(天流水舎)は神前の北」「勅使殿が神前の東北」とあるので、寛政4年(1792)に描かれた『上宮諏方大明神繪圖』では「左方向が東」ということになります。これに「大黒殿(大国神社)の後」を加味すると、現在も同じクランク状の塀ですから、〔A〕か〔B〕部となりそうです。
 『上社古図』では書写した経堂(如法堂)は神居の左にあるので、裏からそのまま入れた可能性があります。しかし、「群衆し参詣多し」とあるので、衆人環視という条件では〔B〕しかありません。また、そうしないと以降の話が繋がらないので“ここでは〔B〕の角”と結論づけしました。

潜り戸 写真を参照すると、右の宝殿に相対する塀に入口があったことになります。現在の塀は昭和の造り替えですが、左の塀には(その気で見ると)踏み石と見られる長方形の石が“残って”います。何よりも、間のスペースが「神居に入る道」に見えてきます。
 以前よりこの「道状のスペース」に悩んできましたから、“私とすれば”これでスッキリしたことになりました。『上宮諏方大明神繪圖』では、布橋を挟んだ手前に五間廊がありますから、この時代では、「写真の道」へは布橋横のスペースを伝うことになります。

納経の道

潜り戸

 一方、享和年代(1800年頃)に勅使殿と五間廊が東へ移築(か退転・老朽化による移転)した可能性が大なので、この時に、納経のための「五間廊跡─布橋─潜り戸」道が造られた可能性があります。大祝の参詣路「神楽殿前─布橋─四足門」は昔からありますから、その左側に新設した「納経の専用道」と考えれば、すべてが無理なく説明できます。
 しかし、(推測ですが)“ようやくここまでこぎ着けた神宮寺側の努力”ですが、10年後の明治維新(神仏分離令)でその存在理由まで失ってしまいました。