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『上社古図』に見る前宮の御左口神 2.1.11

前宮には、御左口神(みさくじ)と前宮があった

 諏訪における便宜上の名称「ミシャグジ」は、中世では「御左口」と書かれ、江戸時代中期以降では「御社宮司」が一般的に使われるようになります。ここではその三神が入り乱れていますが、同じと考えてください。

『上社古図』

前宮 神長官守矢史料館では、江戸時代初期の作とされる『天正のボロボロ絵図』(以降は『上社古図』と表記)を復元模写したものを展示しています。左はその一部で、前宮の核心部になります。
 ここでは、社地の中央にある社を御左口神と書き、本来この場所にあるはずの前宮を、境内社にも見える端に描いています。

前宮 原本の『上社古図』を、宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』の図録から上図と同じ部分をカットして転載しました。
 塗りつぶしたように見える■に「今ナシ」が透けて見えるので、付箋を除けば、模写本はこの絵図を忠実に書き写したことがわかります。

 その付箋ですが、「宮ナシ/囲ミ(?)」と書かれ「祠と玉垣は無い」と読み取れます。これで、模写本に「今ナシ」がないのは、付箋が剥がれた原本を手本にしたためとわかりました。ただし、付箋の「ナシ」と書き込みの「今ナシ」との違いはわかりません。
 この二つの『上社古図』から、かつての前宮には、御左口神社と前宮社が存在していたと考えることができます。

『年内神事次第旧記』に見る前宮・御門家・御左口神

 文和3年(1354)以前の成立と考えられる、守矢家文書『年内神事次第舊記』があります。武井正弘編『年内神事次第旧記』から、今で言う御頭祭の四日後に行われた「前宮神事」を転載しました。

一、丑日は前宮御神事、…御笹御左口神前宮へ入申、…前宮の神事過て内縣神使殿、峯湛より入御(にゅうぎょ)有…御門家にて御手幣有後、石元(いしのもと)(※1)にて両方(※2)にて御手幣有後、御左口神にて御手幣有…

(※1)石の前(※2)内・大(小)県神使

 わかりやすくまとめると、「廻湛を終えた内県・大(小)県の神使が、御門家・石・御左口神の順で帰着の報告をした」となるでしょうか。
 次に、ここに出る「御門家」が『上社古図』に描かれた「帝屋」に重なると、帝屋を、絵図の見た目にとらわれて拝殿として見ていたことに気が付きました。

 つまり、左に挙げた本宮の帝屋が宝殿(幣拝殿)と並行(立)しているように、「前宮の帝屋も(御左口神ではなく)前宮に付帯した社殿と見るべき」と視点を変えました。
 それを踏まえ、本宮の「宝殿−帝屋−舞堂」ラインを参考に、前出の『上社古図』に参拝線を設定してみました。

 研究者は、御柱の配置から「前宮の本義は御左口神(ミシャグジ)」としていますが、このように、帝屋は「前宮社」に付帯した社殿とし、舞屋の位置からも「前宮の本義は(やはり)前宮社」とすべきとなりました。
 その帝屋を『上諏方造営帳』に求めると、天正6年のものに「一、前宮御宝殿造営・一、前宮之御門屋」がありました。これで、『上社古図』の別称「天正の」は、単に古きを求めたものではなく、実際に天正初期の景観を描いたものとすることができそうです。

『大祝職位事書』では

 神長官が、五人の大祝が即位した際の次第を記録した文書があります。解題に「頼満祝襲職の次第を守矢継實廿二歳にして手記せるものにして」とある文明16年(1484)のものに、前宮を参拝した折の詳細が書いてあります。関係する部分のみを抜粋してみました。

一、内御玉殿御社参有…さて前宮江御まいり候て御左口神御まえにて御手くら御祝殿に神長もたせ申て…

一、前宮大明神御前にて何も御幣御手樂(くら)大祝殿神長もたせ申、…

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第二巻』

 ここでは、「前宮は総称で、そこに御左口神と前宮大明神の祠があった」ことが明解にわかります。これで、『年内神事次第旧記』は微妙ですが、『上社古図』を含め、(大ざっぱな区分ですが)戦国時代までは、標題の如く「前宮には、御左口神と前宮の二社が存在した」ことが確実となりました。

 前出の『年内神事次第旧記』では、「御笹御左口神前宮へ入申」と書いています。各地で廻湛を済ませた神使(おこう)が帰着する日に、御左口神を御室から前宮に戻したことがわかります。
 以降は12月の御室神事まで篭もったままですから、三ヶ月続いた神事で弱った“躰”を前宮で養生させているように見えます。そのことから、御左口神のホームは、(神長官邸の御頭御社宮司総社ではなく)『上社古図』に描かれた御左口神ということになります。

その御左口神はどこに

 諏訪神社は中先代の乱とその後に続いた戦乱で強大な力を失い、それに伴って多くの神事が衰退しました。

 前宮では御室神事が廃絶しました。御室は「御室社」の祠として残りましたが、御左口神は「今ナシ」となり現在は何らの痕跡も残していません。前宮での存在意義を完全に失ったのでしょう。一方の前宮社は「諏訪大社上社前宮」として現在に至っています。この変遷を思うと、江戸時代以降の(御左口神抜きの)前宮についての記述は、私には何か希薄に思えてしまいます。

御左口神は神長官が引き取った!?

御頭御社宮司総社 御室神事が廃絶した時点で、神長官が前宮での存在意義を失った御左口神を引き取ったと考えました。
 それが、神長官邸にある御頭御社宮司総社で、江戸時代ではこの御社宮司社をベースに、御頭郷の神使や精進屋にミシャグジを付け・上げしたのでしょう。

ミシャグジ祭祀の“現況”

 (江戸時代も含め)現在の前宮には「祭神/八坂刀売命」など、ミシャグジ色はまったくありません。それでも、(ミシャグジが憑いた)御頭郷の仕事始めとも言える野出神事は、祭壇を前宮に向け、「前宮に向かって拝礼」で終了しています。
 諏訪大社は、今も前宮を御左口神の古宮と捉えているのかもしれません。明治以降は、(職名の変更はありますが)宮司代々の申し送りで密かにミシャグジを祀り続けている…。

神長官邸にある「霊石」は御霊位磐か?

霊石
御頭御社宮司総社「霊石」

 御頭御社宮司総社の左側に、“取りあえず置いた”のがそのままになっているような「霊石」があります。
 あくまで高部歴史編纂委員会『高部の文化財』での呼称ですが、それが、前出『年内神事次第旧記』に出る「石」である可能性を思いました。そうなると、「大祝がその上で30日の精進を行った」と伝わる「御霊位磐」にも重なります。

 前宮の本殿は、昭和7年に、その御霊位磐の上に建てたという話があります。思い付きの類(たぐい)なので空想の域を超えませんが、その時に、神長官が「八坂刀売命のお尻の下になるくらいなら」と自宅に移転させた御霊位磐が霊石であると考えてみました。