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神宝「真澄の鏡」 25.8.4

 「真澄鏡・真澄ノ鏡・真澄の鏡」の表記がありますが、一般的に使われている「真澄の鏡」を採用しました。 「鏡の紛失」については、雑学メニュー〔宝殿の神輿避難する〕を参照して下さい。

 中世の諏訪神社上社では、今で言う「御頭祭」を含む春祭りの最終日に「神宝拝観」が行われました。以下は、『諏方大明神画詞』にある「巳日の神事」を転載したものです。文中の(かな)は、原文に付けられた振り仮名です。

巳(み)の日、…次に夜に入て、大祝(おおのと)内玉殿(うちのたまどの)(※内御玉殿)に詣(まい)て、宝殿を開きて神宝を出す、諸人競いて拝見す、弥栄(やさか)の鈴・真澄(ますみ)ノ鏡・御鞍轡(くらくつわ)なり、氏人の外影を鏡にうつさず、…
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』、
真澄鏡
「瑞花麟鳳八稜鏡」『諏訪史第二巻後編』

 ここに出る「神氏だけが映る」という鏡が「真澄の鏡」です。現在は諏訪大社上社本宮の宝物殿に展示してあるそうですが、私はまだ拝観したことがないので、具体的な姿形を伝えることはできません。

 宮地直一著『諏訪史第二巻後編』の〔第二節 襲職の式〕に、その神宝についての記述があります。(私と違って)あくまでも慎重な表現ですが、第一の神宝を真澄の鏡としています。

 第一の鏡(真澄鏡)に於いては、今も上社づき(付)重宝の一つとして瑞花麟鳳八稜鏡(ずいかりんぽうはちりょうきょう)一面がある。白銅製直径八寸五分、奈良朝の作と見られる。此鏡は寛政十二年神宮寺村うとう澤(杖突峠ノ麓、磯並社ノ上)に発掘せられ、是より先天正の兵乱に遺失した宝物の一であろうという。此の伝承従う時は、之を以て往代の神宝に擬するとしても敢えて不当ではないかも知れぬ。

 ここに出る「天正の兵乱」は織田軍による諏訪侵攻のことで、神輿と神宝を守屋山へ避難させた際に「遺失した」と補足を入れました。
 その発見の経緯が、井出道貞著『信濃奇勝録 巻之四』に書いてあります。後半の「副祝(そえのほうり)長坂純明…」とある漢文は、文法に“こだわらなくても”、順に読み流すだけで(も)大体の意味がわかります。

 此宝鏡は寛政十二年の春、山本(※神宮寺村の古名)の郷民三郎兵衛といえる者の子八十五郎同友樵童(そうどう)とともに薪を採りに守屋ヶ岳に躋(登)る、
 半途(はんと)にして憩(いこう)路の傍に光輝(こうき)の物あり、怪みて鎌を以て土を穿(ほり)ければ、一箇の鏡を得たり、径八寸余厚五分周廻(めぐり)八葉(※八稜)光輝人を照らす、
 家にもち帰りて父に話(かたる)、父邑長(むらおさ)に謀る、邑長官吏に訴ふ、官吏措(さしおか)ずして諏訪侯(※藩主)に上る、侯褒賞して八十五郎に米を賜う、
 侯人をして是を朽木老君(くつきろうくん)に鑑定の事を請給えば、是千年外の物蓋(けだし)鳳馬鏡(ほうまきょう)なりと、又肥州(※肥前・肥後国の総称)の唐津侯に話給えば、唐津侯長崎の有士に命じて訳士(つうじ)を以て異域の人に視せ給う、
 清人(しんひと)(※清国の人)(つらつら)視て白鳳馬鏡にはあらず、背に麒麟鳳凰の鋳形あり、銅色粋美(すいび)なり、是漢代の菱花鏡(りょうかきょう)也、嘗(かつて)聞、魏(の)武帝葆(たから)(宝)としてこれを蔵すと、今を距(さ)る事千三百余年偶(たまたま)日木に来(きた)り此珍品を覩(み)る事を得たりと感歎せしとぞ、今上諏方(※諏訪神社上社)の神庫に蔵(おさま)る。
副祝長坂純明翁之記曰、天正十年三月織田右府欲峡之武田氏而帥十万余騎而屯当郡此時当社罹于兵燹(へいせん)神社宝蔵悉(ことごとく)灰燼也、於是巫之輩荷神輿財宝送于守屋岳山中険路而堕之竟(ついに)其所在二百余年湮没(いんぼつ)者乎不然樵路危険何故在于此(いずくん)云々

 (さっそく計算してしまった)「1800−1582」ですから、220年間も土中に埋まっていたことになります。すでに錆が進んでいたはずですが、あくまで『信濃“奇勝”録』の話なので、顔を照らすほど光り輝いていたと素直に受け入れました。その後の話は、高島(諏訪)藩から九州唐津藩の殿様まで登場するので信憑性はありそうです。
 私は、その経緯はともかく、一般的に知られている真澄の鏡がこの鏡と思っていました。

真澄の鏡は“稜がない円形”

宝殿遷座祭
神宝奉遷『諏訪史第二巻後編』

 ところが、ある日、宝殿遷座祭の「御神宝奉遷」の中に「御鏡」があったことを思い出し、その鏡が真澄の鏡と重なりました。そうなると、「諏訪大社上社第一の神宝が“展示品”になっているのはおかしい」といことになります。
 しばらくの間「おかしい」という程度のままで過ごしてきましたが、原直正著『龍蛇神』の〔蛙狩神事と宇賀神〕の章に目が留まりました。[多宝塔と二つの宝鏡]に載る「二枚の鏡の用途」については限りなく興味を引かれますが、それは別として、関係する部分を転載しました。


 上社の宝物の「真円形」と「八葉形」の二つの鏡の内、真円形の鏡は江戸時代の神長官の手控えのなかに、「真澄鏡」として円形が描かれ、裏には絵様のあったことが見えている。現在では第一の神宝として宝殿に奉られ、遷宮ごとに遷されるが拝見することは出来ない※五四
※五四 今井広亀、前掲書

 これを読んで、「瑞花麟鳳八稜鏡」が神宝であることは変わりませんが、『画詞』に出る「真澄の鏡」は、宝殿に安置してある“稜がない円形の鏡”であると理解しました。
 改めて『信濃奇勝録』を読み直すと、「今、鏡は“神庫”に蔵る」とあります。同じ「意」となる宝殿のことを指している可能性があるので、同じ用例がないかと探してみると、「御柱祭」に以下の文がありました。

此年萱葺の宝殿一方を改(あらたに)造り六月寅申日神宝を新殿に迁(うつ)す、

 ここに「宝殿」と書いてあるので、神庫は字の通りとなりました。これで、神庫は現在の宝物殿のことですから、今井広亀さんの著作によれば、ここに収まる鏡は「瑞花麟鳳八稜鏡」で、「真澄の鏡」ではないということになりました。

御鏡 私としては「丸鏡は、諏訪神社上社に伝世された光り輝く三角縁神獣鏡」としたいのですが、前掲した御神宝奉遷時の写真を拡大すると「柄鏡」のように見えます。
 表面に何か映っていますが、素手で持っているので、鏡の容器が外光で反射したものでしょう。神宝は「鏡・弓・薙鎌・鉾」の四種ですから、複数あれば別ですが、写真の形状から鏡と見て間違いないとしました。
 ところが、柄鏡の登場は室町時代後期とされていますから、時代が合いません。しかし、永久に拝観不可と思われるので永久に確定できないとし、今回の「真澄の鏡」はこれで終わらせることにしました。

御鏡 平成28年は、宝殿遷座祭を見学する機会がありました。方向転換する際に柄がチラッと見えましたから、箱の上に御鏡が置いてあるのがわかりました。箱からはみ出た大きさなので、上写真の柄鏡であるのは間違いありません。
 そのことから、真澄の鏡は金襴に包まれた箱に入っている三角縁神獣鏡の可能性が極めて高くなりました。