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古絵図と地図に見る守屋山(神輿避難の道) 27.12.5

〔守屋山−神輿避難の道−〕の最終章を再構成したものです。関係する史料に合わせたので、「神輿・御輿」のゆらぎがあります。

守屋山で、諏訪大社上社の神輿が造られた 27.6.10

 〔諏方正一位南宮法性大明神御輿再造之事〕と題がある『諏訪頼忠慶讃(案)』に、「大工牛山因幡守長家、宮山の洞の中で潔斎禁足を百ヶ日、すでに御輿造終わり」の文言があります。
 天正12年(1584)の文書ですが、ここに出る「宮山の洞」に興味を引かれました。しかし、私のデータベースには、宮山を守屋山と拡大解釈しても「洞穴」はありません。そのため、その存在の有無は棚上げとしました。

守屋山「御臺所」
諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』(部分)

 『諏訪藩主手元絵図』の〔神宮寺村〕に、「此所大明神御輿仕立し所」と書いてあることに気がつきました。この「御輿仕立」が、前出の「御輿再造」にリンクしたのは言うまでもありませんが、その場所「御臺所」が、『諏訪郡中洲村誌(写)』の「御臺所(おだいどこ)等の字名(あざな)今に存せり」と重なりました。

 このように各書にある言葉が繋がり始めましたが、この絵図では、穴が空くほど見つめても御臺所に辿(たど)り着くことはできません。

御台所は「神輿を作った場所」なのか 27.12.3

 明治7年作成の絵地図〔神宮寺村(その2)〕を見つけました。さっそく「守屋嶽(守屋山東峰)」から尾根伝いに目をやると、「御臺處(御台所)」がありました。やや具体的な描画から、守屋山西峰の辺りで樹下という場所です。

御臺所「守屋山」
滝沢主税編『長野縣町村繪地圖南信篇』〔神宮寺村〕(部分)

 しかし、1650mの標高では、尾根を避けても「滞在は困難」と言うしかありません。何より、わざわざ劣悪な環境で神輿を造る理由がありません。少し下れば、神輿の避難場所として使われた、緩斜面に沢水が豊富な適地(守屋山キャンプ場)があるからです。

 その方向で『諏訪頼忠慶讃』を読み直すと、潔斎禁足したのが宮山の洞の中で、「その中で神輿を造った」とは書いてありません。これに「御臺所(御輿仕立てし所)」を重ねると、神輿は、用材を守屋山の尾根で調達して本宮境内の作事屋で造ったと解釈することができます。戦乱が収まり諏訪神社が復興した時代では、用材の取得地が神輿を造った場所として伝わったのでしょう。もしかしたら、意図して変えた…。

地名とその場所を推定してみる

 今までに挙げた新旧の絵図を参考にして、守屋山キャンプ場附近の主な地名を地図に貼り付けてみました。

権祝昼飯場 「権祝昼飯場(ごんほうりひるめしば)」は、守屋山キャンプ場の中でも登山口付近としました。沢水を見つけたものの、用心して、下方を見下ろせるこの場所まで上って昼食をとったと考えたからです。

守屋山キャンプ場
国土交通省『地理院地図』

神輿坂 明治の絵図にある「神輿坂」は、マムシ山の麓で沢沿いという傾斜が緩やかな箇所に書かれています。しかし、何の変哲も無い場所なので、わざわざ「坂」と付ける理由が見つかりません。
 一方の『座禅草の観察遊歩道』に載る「みこしへ(神輿へ)」の先を「神輿坂」とすれば、「余りの急坂で難儀した」と合理的な命名由来になります。『諏訪藩主手元絵図』にも近いので、こちらを「正」とし、他方を「()」としました。

地図上の地名・他は、このサイトで記入したものです。

仮称「田部(田辺)山ルート」

 −−は、この地図には載っていない「神宮寺−守屋山」道です。私は、この中間にある、これも未記載の林道に惑わされて、マムシ山の向こうにある(麓からも見える)巨大な無線中継所を訪れる羽目になりました。その時に、地図に中継所から守屋山へ登る道があるのに気が付きましたが、大きな「キノコ山」の看板と、“もしも”のことを考えて別の機会としました。今思えば、このルートが、守屋山直下にある踏み跡でした。