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本宮「二つの神楽殿」 30.8.4

 菅江真澄の紀行文『すわの海』から、「今日は酉の日(御頭祭)なりければ…〕で始まる〔天明四年三月六日〕の一部を転載しました。内容は、諏訪大社上社本宮の斉庭(ゆにわ)から見た景観になります。

■ 現代風に書き替えました。読みやすいように句読点を加えましたが、本来の意味とは異なってしまった可能性もあります。
 これは武南方富命の御坐(おま)します御簾(みす)の内は、ただ小笹のみ生い茂りて、さらに御社(みやしろ)もなく、方は戌亥(※北西)を定め給えば、出雲にや向かわせ給うならんか。いと尊く涙萎(しお)れぬ。
 矢と幣(ぬさ)とり納めて、かしこを拝み巡る。彼方の庇(ひさし)に白衣着たる巫女五人、鈴を打ち振りながら左の手に(じゅず)つまぐりたるも怪(あや)し。
 ここは御炊殿・文庫・三亢宗源()お祭りの具など御前に向かう。
 南の屋(や)に、巫女七人あまり鈴を振りて、念珠(ねんず)は見えざりけり
信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』

 ここに出る「彼方の庇・南の屋」から、巫女が舞う社殿が二つあったことがわかります。

“神式と仏式”の舞

高神子屋と下神子屋 「天明四年(1784)」に近い絵図があります。寛政四年(1792)『上宮 諏方大明神繪圖』の一部を、『諏訪史 第二巻後編』から転載しました。ここにある「高神子屋・下神子屋」が、「南の屋・彼方の庇」に相当します。菅江真澄は、それらに、数珠の有る無しで描写した二組の巫女を書いていますが…。
 拝殿(内陣)と向き合う高神子屋は「なる程」と納得できる社殿配置です。(離れた場所にある)下神子屋も、その延長線()の先が拝殿ですから、(宝殿止まりの可能性もありますが)これも理解できます。
 しかし、「高・下」とある神子屋の名称からは、格式や用途が異なっていることが容易に想像できます。それを、菅江真澄の一文だけで“神式と仏式”と言い切ることは、私が蓄えてきた知識ではできません。

神楽屋と舞堂
神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』

 代わって、江戸時代初期の様子がわかる『上社古図』を眺めると、こちらは「神楽屋・舞堂」で、それぞれが「平屋・高床」の建物で描かれています。以降の古絵図も同様なので、これが時代を問わない形式ということになります。
 一息ついた所で、大別して「中壇にある神楽屋は、社内の神事に限定して使う」「下段にある舞堂は、(神宮寺関係を含む)社外から要請があった時に使う」とひねり出してみました。

 時代によって名称が異なるので、以下に並べてみました(江戸時代以降・時代順不同)。

『すわの海』(南の屋)(彼方の庇)
諏方大明神本社繪圖高神子屋下神子屋
上社古図神子屋舞堂
諏訪藩主手元絵図高神子ヤ神子ヤ
その他の絵図高神子屋神楽殿・神楽舎
現在無し(授与所)神楽殿
信州一之宮諏訪大明神御社内之圖
長野県立歴史館蔵『信州一之宮諏訪大明神御社内之圖』

 幕末期の作成と思われる絵図です。このタカミコヤ(高神子屋)を現在の授与所に置き換えれば、当時(拡張前)の境内がよくわかります。因みに、高神子屋は授与所として使われました

本宮の神楽殿は、諏訪大社には必要ないもの…

 かつての本宮では、神楽殿で湯神楽が盛んに行われていました。しかし、それが廃れた今は大太鼓が置かれているだけで、諏訪大社の神事には使われていません。その一方で「二の祭」などで奉納する浦安の舞は拝殿で行われていますから、神楽殿の役割は何だろうと考え込んでしまいます。
 その疑問も、「元々は高神子屋が第一義で、神楽殿は外部からの要請で導入したもの」と考えれば、諏訪大社が高神子屋の代わりとなる神楽殿を使わない(使おうとしない)のも何か納得できます。

追記

 現存していない社殿とあって大きくアピールできませんが、本宮で話題になる参拝線「拝所−幣拝殿ライン」は、正確には「高神子屋−幣拝殿ライン」になります。