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『神長守矢満実書留』と御手洗川の氾濫 23.4.26(改)

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に『神長守矢満実書留』が収録してあります。私もその一部を引用することがありますが、彼が神長官(この時代では神長)とわかっていても、その書物がどのようなものかを考えたことはありません。今回、縁あって同書の「書目解題」を読んでみました。

守矢真幸所蔵 
 神長守矢満実書留は、寛正五年三月廿四日より延徳四年三月一日に至る、諏訪上社神長官守矢満実が祠官として直面せる同社御頭役に関する事項をば、年次を逐(お)うて筆録せるものにして、時恰(あたか)も応仁・文明の乱裡(り)に際し足利幕府の紀綱暫く弛みて地方政治に紊乱(ぶんらん)を招きし折柄なりしかば、従って之れが神事等にも影響を及ぼし諏訪社家大祝家を始め、地方豪族の間に漂える不安の空気は、それ等の日に於ける天変地異の現象と相互に交錯して、当時の態をさながらに目堵(※目処?)せしむるかの感あり。
 而(しか)もかかる暗黒時代に於いては記録文書の徴すべきもの希なるに係わらず、獨(ひと)りこの種の記録の遺されたるは亦(また)以て得易(えやす)からざる史料として珍重すべきものなるべし。(後略)

 今図書館で読める『諏訪史料叢書』は昭和60年の発行ですが、大正14年発刊の「復刻版」なので、読みにくい文であることは変わりません。何しろ、難読字は別としても、この部分だけで(最後を除いて)[。]が一つだけという調子なので読み疲れします。この時代のこの解説書を書いた編集委員の人柄が“偲ばれ”ます。

「土石流で埋まった諏訪大社本宮境内」

 これは前回アップした「雑学」の標題ですが、「たくろ」さんから再び「追伸」としてメールが来ました。

満実書留の延徳4年3月1日に、難解で解読不明ですが、
「御手洗川の沢が出早を押し二の御柱が丑寅の方向へ動いた」ともうけとれるような記述もありました。

 元号がわかっているので楽です。図書館で該当する延徳4年の項を開くと「神使御頭足」の記録でした。

一、此三月一日かのとの未さたむ卯剋(※刻)、御たらし澤出て出早良(雄)を押、二御柱丑寅辷給(すべりたまう)

 「かのとの未さたむ」は干支の「辛(かのと)の未(ひつじ)定む」と読めますが、それでは意味が通じないので一時棚上げとしました。卯の刻は「朝5時から7時」なので、「朝6時頃に御手洗川が出(出水し)て、出早雄(出早社)を押し流した」と読めます。二之御柱は「辷(滑)った」とあるので、「倒れずにそのまま東北に流された」と解釈しました。倒れなかったのは「御柱を埋めた地盤ごと動いた」ことになるので、この時代でも、かつて堆積した土砂の上に御柱が建っていた可能性があります。「辷」一文字からの推理ですが、これに近い状況の「御手洗川の氾濫」であったのは間違いないでしょう。

出早社(出早宮)
「出早社」「二之御柱」 

 「かのとの未さたむ」を二日に渡って念じてきました。一晩寝たことで雑念がリセットできたのか、(を付けてもらえるかはわかりませんが)以下のように解釈できました。

「彼時未定」を、(理由は不明だが)「未」を除いてカナに置き換えたもの。「氾濫した時間(彼時)は定まらないが(凡そ6時)」となる。

 ここで取り上げた「御手洗川の氾濫」は、「延徳四年壬子神使御頭足」の項に書かれています。ここには、神使の「足代」が十分に集まらないことや、「外・内・大縣」の神使が「介・宮付」で書いてあります。そのため、戦乱のこの年でも、何とかやり繰りして6人の神使を湛え神事に巡回させたことがわかります。


 前回の「氾濫があったと推測できる」文明3年は、1471年です。延徳4年はその20年後ですから、戦国時代の乱れと度重なる大災害による復旧で「神使廻神」が行われなくなったことが考えられます。(史料散逸の可能性もありますが)『神長守矢満実書留』はこの年で終わっていますから、明応元年に改元された延徳4年が、中世における諏訪神社祭祀形態(断絶)のターニングポイントになったのかもしれません。
 「延徳4年・西暦1492年」と言っても雲をつかむような時代ですから、調べて、「延徳2年に第8代将軍足利義政が死んだ」を挙げました。