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本宮と新村社(“強制収用”新村社) 17.4.23

 去年、北海道の方からこんなメールを頂きました。

上社はある時、神社の境内を拡張しております。その前と後の配置図など知りたいと思います。そのため移動した新村家の祠が今の本社の境内にあるはずです。

 

 本宮参集殿の上に「大国主命社」があります。境外とあってその社殿は山に続く斜面に建てられています。その脇からさらに高みを目指している石段上を仰ぐと、スイセンの群落が花を咲かせています。

新村社 誘われるように何段か登ってそれを正面にすると、右手奥に続く踏み跡のような凹地の脇にも一群のスイセンがあります。それに目を移すと、その奥のちょっとした広場に、「こんなところになぜ」という石祠があるのに気が付きました。今の時期では他に“青物”はありませんから、まるで誘いが掛かった「道標」のようでした。

 本宮の境内で桜を見た帰りですから、枯葉でさえそのクッションが春到来と思えてしまいます。その感触を味わいながら祠の前に立ちました。脇に灯籠が一基だけありますが、色の違いから、火袋から上は後世に補完されているようです。「神宮寺石」の赤い肌に刻まれた文字を読んでみました。「神宮寺村新村氏一統」「延享(えんきょう)五年戌辰三月」とあり、何と以前から探していた「新村」氏縁(ゆかり)の灯籠でした。

新村社 灯籠が一基だけなので祠との位置関係が分かりません。とりあえず、その背後にある屋根だけを見せている苔むした祠にかがみ込んでみました。
 ところが、見た目では屋根だけで下部は失われているようです。その真横に玉垣で囲われた新しい祠があることから、本体が壊れたので造り替えた可能性を思いました。石祠の裏を見ると「昭和46年・新村氏子一統」とあり、これが移転した(またはさせられた)新村家の氏神を祭った祠と確定しました。自分にとっては、ついに発見という快挙でした。

 自宅で調べると、灯籠に彫られた「延享」は4年で終わっており、5年は寛延元年(1748)に当たります。7月12日に改元とありますから、その日以前に「見込んだ」年号を彫った竿が完成していたことになります。参考までに、「延享」は徳川吉宗・「寛延」は家重の時代と挙げてみました。天皇は「桜町と桃園」と言われても、…ピンときません。「延享二年に伊能忠敬誕生」は幾らか身近に感じられました。
 あれこれ“詮索”してみましたが、私が如何に暇人かということを証明することになってしまいました。私事ですが、昭和63年と平成元年の境がいつだったのかは「寒かった頃」としか覚えていません。