佐久市のサイト『SAKU CITY 佐久市』〔名所・史跡〕では、[諏訪湖の御神渡り]を以下のように紹介しています。
これが、御神渡りについての、佐久側というか新海三社神社を語る人の代表的な認識です。
その根拠としているのが、『諏方大明神画詞』に出るこの一節でしょう。
しかし、ここでは「新開明神は、小坂鎮守明神と参会」と書いています。興波岐命は江戸時代後期から散見され始める神なので、『画詞』が書かれた中世に登場することはありません。
それに関連して、新海三社神社の祭神は「健御名方命・事代主命(合祀/誉田別命)」ですから、それらの神々が諏訪湖へ出掛けると、かなりややこしいことになります。それを危惧して諏訪神社を新開神社と改称し、新開明神を名乗ったのでしょう(とは、飛躍しすぎか…)。
一つ戻った「行程二日斗り也」ですが、諏訪から佐久の新開社まで行くのに二日かかるということですから、「佐久の新開社」は佐久市田口鎮座の新海三社神社ということになります。
しかし、用意した衛星写真で(なくても)わかりますが、この遠距離では、「諏訪湖の御神渡りに、佐久の新海三社神社が関わる」ことに単純に疑問を持ってしまいます。と言うのも、御神渡りが交差する「御神渡りクロス」は、諏訪湖周の神々で完結する(佐久はお呼びでないよ)」とするのが自然ではないかと思うからです。
しかし、動かぬ「行程二日」があるので、新海三社神社を受け入れるしかありません。それでも「『画詞』の記述は御神渡りの現状に即していない」として、「行程二日」を外す、またはうまく説明できる何かがないかと頭をひねってみました。
まず、宗詢(そうじゅん)さんが『画詞』を書き写した際に、「この方が壮大で面白い」と幾つかの文言を加えたと考えてみました。
諏訪湖岸にある先宮神社の別称の一つは「佐久新開」ですから、一部を削除する(元に戻す)だけで、諏訪のみで御神渡りが完結する形となります。ただし、僧という宗詢さんの立場をゆがめることになるのは否定できません。
次に、「郡内」を「小坂の鎮守」の前に書いてしまったと考えてみました。書き写す際に、一行をそっくり抜かすことや前後を入れ替えてしまうことがあるからです。通読しても意味が通る場合があるので、誤りに気が付きません。
(誤りとして)元(原文)に戻すと、
となり、うまく繋がります。
これは、原作者の円忠さんが、諏訪神社(現諏訪大社)を庇護する鎌倉幕府を慮(おもんばか)って、佐久の新海三社神社を“編入”させたとする話です。彼は幕府に仕える身ですから、御神渡りの段に「鶴岡八幡宮の祭神である誉田別命を相殿に祀る新海三社神社を組み入れた」とすれば、スジは通ります。
しかし、私の説に導くためにひねり出したような話と反論されれば、下を向くしかありません。
「御神渡りクロスの概念図」を用意しました。
■ ここでは、上社の祭神を建御名方命・下社の祭神を事代主命に設定しています。
■ 高照姫命は、先宮神社の祭神です。先宮神社には、「新海社・新開社」などの別称があります。
■ 下照姫命は、小坂鎮守神社の祭神です。
以前、『雲陽誌』※の〔神門郡 杵築〕に載る出雲大社を読んで、客座に祀るという「味耜高彦根命・下照姫命・事代主命・高照光姫命・建御名方命」のラインナップに注目していました。
この御子神から味耜高彦根命を除く四柱を諏訪の地に置くと、「建御名方命(上社)→事代主命(下社)」「高照光姫命(先宮神社)→下照姫命(小坂鎮守神社)」と、うまく「兄弟で御神渡りライン」を構成できます。高照光姫命は、先宮神社の祭神「高光姫命」に重ねることができるからです。
これも、「数ある古書の中の極一部を発展させて御神渡りに結びつけた」と言われれば、返す言葉はありません。しかし、「行程二日」だけが御神渡りと新海三社神社を繋ぎ止めているのを見れば、御神渡りに佐久の神が登場することに益々違和感と唐突感を感じてしまいます。