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『諏方大明神画詞』で読もう「御神渡り」

 一度は読んでみたい『諏方大明神画詞』があります。読破するにはハードルが高いのですが、諏訪湖の風物詩「御神渡り」に寄せて、その一部を上のタイトルを付けて紹介することにしました。原文は、信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』収録の『諏方大明神画詞』です。ほぼ原文を載せ、読み仮名や簡単な意味を加えました。
 御神渡りのメカニズムは解明されていますが、中世の人々が「御神渡りをどう見ていたのか」を知るには、『諏方大明神画詞』は格好のテキストだと思います。法話のような難解な部分もありますが、図書館へ足を運ぶわずらわしさがないので、ぜひ一読してください。

「諏方社祭」〔巻第七・冬〕〈八十段・御渡(※御神渡り)

 毎年臘月(ろうげつ※12月)中、日限はさだまらず、極寒の時節、日夜の間に御渡(みわたり※御神渡り)あり、當(当)社神変不思議の専一(せんいつ※随一)として、事未だ断絶せざる所なり、上下両社の中間に五十町湖水あり、氷閇(閉)じかさ(重)なりて、厚き事或いは四五尺、或いは三尺餘(余)也、氷の上に雪ふり積みて凍(しみ)弥あつし(いや厚し)、行人征馬(こうじんせいば※旅する人と馬)の通路とし、大笠懸の馬場とす、漁人網をおろすとて假令(けりょう※おおよそ)五六尺切りひらく時、十人斗(ばかり)斧鉞(ふえつ※オノとマサカリ)をもて切りて魚をとる、
 然(しか)るに神幸(しんこう※渡御)の跡は廣(広)さ四五尺・南北は五十町あきてとお(通)れり、其の氷水底にい(入)らず、両方にあがりて山の如し、又、佐久の新海社(※佐久市臼田町の新海社)は行程二日斗(ばか)り也、彼(かの)明神と郡内小坂(おさか)の鎮守の明神(※小坂鎮守神社)と、二神湖中に御参會(会)あり、然れば大小通路三の跡(※一・二・佐久の御渡り)、辻(つじ)の如くにして歴然たり、誠に人力の及ぶ所にあらず、また、神幸畢(終)りて濱(浜)神の鳴動数十里に及ぶ、其の聲(声)を聞きて諸人群集して是を拝す、
 倩(つらつら※よくよく)往事(おうじ※過ぎ去った昔のこと)を尋ねるに、後三条院の御宇(ぎょう※御代)延久年中(※1069-1071)、當(当)所に一生不犯の行者ありけり、時輩(じはい※其の当時の人々)の諺(ことわざ※話)にはたふと房(※タフト坊・尊坊)とぞ号(ごう※言い)しける、
 発願して云(いわ)く、我受生(※生を受けて)以来あえて禁戒を犯さず、酒肉五辛(ごしん※ニラ・ニンニク等、五種類の臭い野菜)を食せず、読経誦呪(じゅじゅ※修法で陀羅尼を唱える)の勤行昼夜おこたる事なし、願わくは明神御渡の儀を拝せんと祈りて、夜々湖水を渡りて寒氷に臥す(ふす※横たわる)事累日(るいじつ※連日)なり、或る夜五更(ごこう※一晩中)に及びて千万の軍卒(※兵)発向(※出発)の勢(ぜい)あり、其の形を見奉らず(※「見えず」の敬語)、空に声ありて、手長(てなが)ありや、目きたなきもの取りて捨てよ※1と聞こゆ、則ち人のちかづくよそおい(装い※様子)ありて、其の時あらくすつな※1と仰すと聞こえて忽然として熟睡す、
 翌日に日の出の程に眠りさめて、おきあがりて左右を見れば我境(※自分がいた土地)に非ず、慮外(りょがい※意外)の路次(ろじ※道すじ)なり、行く人に此の在所をと(問)うと、遠州(※静岡県)さなぎの社と答う、諏方海(※諏訪湖)の流れの末天龍川の砌(みぎり※場所)なり、由緒なきにあらねども(※今に至った経過はわからないが)行程(※帰る道のりは)又七ヶ日許(ばか)り也、
 神変の不思議(たん※朝)は恐怖し(※旦を夕にすれば「旦夕」となり、文の流れが整う)は随喜(ずいき※大喜び)す、不善(※よくない)の誤(り)なしと云えども肉眼拝し堅き理(ことわり)(※道理)を存じて、此の念を絶ちて※2、弥(いよいよ)、積功累徳(しゃっくるいとく※功徳を積む重ねる)の聖人となりにけりと、古老語り伝えたり、
 御渡(おわたり)は上古以来夜中の化儀(けぎ※現象・本来は「仏が衆生を教化する方法」)なり、時節たが(違)わざる處(ところ)に、承久三年亥巳正月三日、初めて午時(うまのとき※昼の12時)より御渡あり、先ず越年の例を珍事とす、其の後相続して近来日中の儀なり、吉兆(※よいことが起こる前ぶれ)はか(計)りがたし、
『諏方大明神画詞』「80」

 以上が『諏方大明神画詞』にある「御渡」の段です。この中で、「※1手長ありや、目きたなきもの取りて捨てよ」と「※1あらくすつな」が理解できません。下手の考え休むに似たりですが、“長期に渡る休養”の結果、突如閃きました。

 先導する神が「手長はいるか。人間(目が汚い者)がいるから排除せよ」と叫んだ。手長明神が諏訪湖畔から手を伸ばしたが「手荒いことはするな」と制止の声があった。

 たふと坊に徳があったからこそ、諏訪明神の温情で、遠州に飛ばされるだけで済んだのでしょう。手長明神は「鷺宮」の祭神で「この御神は七日路の遠くへ御手が出給う」そうでから、静岡まで一気につまみ出されたことがわかります。

嘉禎4年『上中下十三所造営』

※2の部分は、私には「回りくどい」表現で明解に理解できません。『折井宏光絵/宮坂光昭文・諏方大明神画詞』があります。「八十段・御神渡り」にその解説がありました。

 これで御神渡りを肉眼で見るべきでないと悟ったという。この話は、御神渡りの出来る前の氷上を穢(けが)してはならない、神罰が下るという事の一例である。諏訪人が一般的にいうのは、御神渡りが出来る前に氷上に上がるのは危険であるという。

「越年の例を珍事とす」

 最後の最後に「承久3年(1221)」の御神渡りが異例であったことを書いています。旧暦の1月(越年)に当たる2月の御神渡りは現在でもありますが、「真っ昼間に出現した」ことには驚かされます。変事の前兆ということなので、調べると「後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた」ことがわかりました。以下は、〔縁起第四〕〈承久の乱〉です。

承久二年冬、湖水の御渡り違例せり。諸人怪(あやし)と思処に同三年五月天下の大乱起りて、都鄙(とひ※都と地方)軍旅を馳せととのう(※急いで集められた)

 まだ(未だに)『諏方大明神画詞』の「諏方祭」を“拾い読み”している最中なので、〔縁起〕とループしているとは思いませんでした。これもまた私事ですが、ワープロで「承久」に変換できないので、この年まで「しょうきゅう」と読んでいたことが“発覚”しました…。