「御神渡り(おみわたり)」については、多くのブログやサイトで取り上げています。今さら重複することを書くのも何なので、ここでは、チョッとだけディープな「御神渡り関係の文献」を紹介します。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に、『当社神幸記』と『御渡帳(みわたりちょう)』が収録してあります。この二つの文書の〔解題〕を、どのような書物なのかを説明する代わりに紹介します。初版はまだ「中洲村・上諏訪町」である大正14年の発行なので、つい畏まってしまう表現の硬さがあります。
當社神幸記 五冊 中洲村 大祝頼固氏蔵
旧上社大祝家にては、当家の行事として古来より行われ来れる御渡注進の控を集めて「当社神幸記」なるものを集成したり。収むる所嘉吉に始まり天和に終る。…本書集成の年代は…大祝神頼隆の手により作成せられたるものか。(以上抜粋)
御渡り帳 一綴 上諏訪町小和田区蔵
小和田村は古来諏訪湖の御渡状況に関し年々これを上社に報告するの所役あり。…村役人はこれを浄書して外記太夫家に進達す。尚この時前年の豊凶をも付記して以て天和三年(1683)以来明治四年に到る凡そ百九十年間、連年記載せるもの即ちこの「御渡り帳」なり。(以上抜粋)
御神渡りの記録が「天和」を境に“官から民”に移った経緯はわかりませんが、連続した記録が「嘉吉3年(1443)から明治4年」まで残っていることが驚きです。
『当社神幸記』には最古の「応永4年(1397)」が存在しますが、『諏訪市博物館WebPage』に嘉吉3年(1443)の「御渡注進状扣(控)」の写真があったので、それを忠実に似せたものを作ってみました。
(このままでは読めそうもないので)本文のみを「書き下し文」にしたものを以下に続けました。「鵜木渡」は『諏訪市史』の図表「御神渡り下渡・上渡地」にありましたが、「高畑渡」は不明です。
御神渡りはあったが、「下社側の岸辺は凍らなかった」ということでしょう。「佐久新海明神の参会」は『諏方大明神画詞』にもあります。
「先宮神社」辺りから諏訪湖の西岸「小坂鎮守神社」方面に向かって出現する御神渡りが「佐久の御渡り」です。これを両神が湖中で会ったと考えた(表現した)のでしょう。上社─下社ラインと交差するので、「辻の如く」と書いています。
諏訪市史編纂委員会『諏訪市史』から抜粋して紹介します。
そのまま読むと、480年前の蛙狩神事では「三年連続でカエルが捕れなかった」ということになります。こうなると、「七不思議」云々より、仮に蛙狩神事でカエルが見つからなくても「前例がある」と開き直ることができます。
以下は、「嘉吉」から300年後の宝暦5年(1755)の『御渡帳』です。長からず・まとめやすいという自分本位の理由で「この年」を選びました。
ここでは、御神渡りの「始発と終着」場所を「御坐」と書いています。「座る」という意味では理解できませんが、『當社神幸記』の「上御(あがりまし)」から「おまし」と読むことができそうです。
〔解題〕には「前年の豊凶をも付記」とあるので、「亥年の拝観に亥年の状況が書かれている」ことに悩みました。他の年を確認すると同様の文面です。しばし瞑想すること3分。現在と違う旧暦なので、「年末に現れる御神渡りに当年の豊凶を書く」ことができたのは当然のことでした。