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『当社神幸記』に見る世相 23.2.19

 奉行書へ提出した「御渡注進状」の「控」をまとめたのが『当社神幸記』です。その注進状の中には、御神渡りに関係がない“世相”を書き加えたものがあります。あくまで控の文書なので、その年の“気になったこと”を「覚え(メモ)」として気軽に書き込んだのでしょう。注進状には年号が併記してあるので、読む人によっては「この書き込み」が貴重な情報源になります。

当社神幸記 左は、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』にある図録の写真「御渡注進状中史実書入之一例」ですが、ここには「蛙カリニ一(ひとつ)モナシ」と書いてあります。詳細は後述としますが、『叢書』の編集者が「これは珍奇」として、数ある中から“この一枚”を選んだのでしょう。

大飢饉

 『諏訪史料叢書』から二通の「世相」を転載しました。両文ともに、翻訳ソフトのような「たどたどしさ」には参ります。これは、大祝の悪文が原因なのか・読み下しが下手なのか、原文を参照できないので確認もできません。もっとも、後世の人に「研究材料として読まれる」とは夢にも思わなかったはずですから、このような文句をつけられても“メモに文法など必要ない”と開き直られるのは必定でしょう。
 文安3年(1446)12月9日では、大祝頼満の名でその年の世相が書かれています。(○○)は、編集者の添え書きです。

丙寅年、大飢饉(ケカチ入)、五月廿四日五日原山をつくるによってあらめに(か?)神人を山中に宛満(す?)諸人見る不思議之事也、くわなんとをとりて成敗すと見(か)

 二日後の12月11日にも、ほぼ同じ内容が書かれています。

丙寅、大(ケカツ)入、五月廿四日神人原山々中を満々て諸人に見えし、是は原山に作らする(事)によってかく有と云、鍬を持てあら目神人に見えし不思議、

 比較すると「下書きと清書」に見えますから、前文の余りの下手さに校正の手を入れたのが後文と思えます。それでも意味が通りません。
 ここに出るキーワード「原山」を、武田信玄の花押がある『諏方上下社祭祀再興次第』から引用しました。それには「御射山の原、従上古(上古より)不耕作之処…」と書いてあります。「御射山(高野・原山)は神山で、古来から入山や耕作・狩猟は禁止」ですから、文中の「つくる・作らする」は否定の「不作(作らず・耕さず)」と考えました。「あら目」が意味不明ですが、文脈から「あたかも」の間違いとし、「大祝が言わんとすること」を推定しながら意味を通してみました。

文安三年、大飢饉(けかつ)、5月24日には“不作”の原山に諸人が充満す、鍬を持って現れるのが恰(あたか)も神人に見える事が不思議

 現在の暦では6月なので、里の食草を採り尽くした人々が八ヶ岳山麓まで押し寄せたのでしょう。人間がいないはずの神の山だから、彼らが神のように見えたという“意味”です。
 「原山」は地元に当たるので、(諏訪郡)原村の各家庭に配布された原村四百年史編纂委員会『郷土の歩み』を開きました。目論見通り、この一文を説明した項目がありました。

 この意味は明らかではないが『諏訪史第三巻』には、強いて解すればとして「飢饉により人々食糧に不足し原山山中に入り、木の実、草の根を取ったことかと思われる。飢饉の年にはかかる例は珍しくないことである」と、述べている。

 “我流翻訳”の出来具合を確認するつもりでしたが、状況説明だけで“大祝が感じたこと”は論外に置いています。(書きたい放題の私と違い)公の立場とすれば、この解説がベストの表現なのでしょう。

御室の火事

 飢饉の記述に続いて、付け足しのように「此年正月御室焼失」と書いてあります。他の文献にも「御射山御狩神事の最中に穂屋がすべて焼けたので逃げ帰った」という記述が見られますから、茅の仮屋では火災が度々あったと思われます。この緊急時に「ミシャグジ」をどう避難させたのか気になりますが、ここには“見出し”だけしか書いてありません。

蛙狩神事に「蛙なし」

 大永5年(1525)の「当大明神御渡之事」です。大祝「宮増丸」とあるのは、元服前の「諏訪頼重」です。

明年蛙狩に蛙一つもなし、前代不聞不思議なり

享禄元年(1528)には

戌亥子(いぬ・い・ね)三ヶ年蛙狩に一つもなし、不思議也

とあるので、大永6年から3年続けてカエルが捕れなかったことなります。こうなると「七不思議」も怪しくなってきますが、準備は万端で(想定済みで)前もって用意してある代用蛙を使ったのでしょう。

宝殿に神輿が入らない

 寛文2年(1662)の大祝頼寛の名がある「当大明神御渡之事」です。ここに、今で言う「宝殿遷座祭」の様子が書かれています。

 此年四月刀(とら)日御柱祭礼本社(※本宮)一御柱大群催(もよおすと)(言えども)あい立たず、翌日辰上刻(※朝7時半頃)少勢で軽々曳き立つ、
 六月十二日、当社遷宮の宝殿間口狭くて神殿へ御輿あい入らず、大工戸(の)縁折り放ち御輿納む、次の御柱(さる)六月十七日元の間口にして御輿直ぐ出る不思議、日々同六月鶏冠(※鶏冠社)蔦一夜枯れ倒れる

 「年」に、「次の御柱」が書かれています。初めは「6年後の様子が(6年前の注進状に)書いてある」ことに疑問を持ったのですが、『当社神幸記』の「解題」を読み直して納得しました。『当社神幸記』は“まとめて集成”したものでした。いずれにしても「神輿の出し入れに余裕が無い寸法」など考えられないので、平成の世でも「不思議なり」と言うしかありません。

江戸時代にオーロラ出現(?)

 延宝8年(1680)11月1日に「西に星出る。その形虹の如し」とありますが、「虹のような星」が連想できる“物体”が思いつかないので紹介だけで済ませていました。平成24年になって「低緯度でも見られたオーロラ」をテレビで視聴し、これはオーロラのことだと直感しました。しかし、ネットの検索では、諏訪以外の文献には類似の現象が見つかりません。私としては「オーロラ」と断定したいのですが、拡大改変解釈になりそうなので、これで切り上げることにしました。