奉行書へ提出した「御渡注進状」の「控」をまとめたのが『当社神幸記』です。その注進状の中には、御神渡りに関係がない“世相”を書き加えたものがあります。あくまで控の文書なので、その年の“気になったこと”を「覚え(メモ)」として気軽に書き込んだのでしょう。注進状には年号が併記してあるので、読む人によっては「この書き込み」が貴重な情報源になります。
左は、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』にある図録の写真「御渡注進状中史実書入之一例」ですが、ここには「蛙カリニ一(ひとつ)モナシ」と書いてあります。詳細は後述としますが、『叢書』の編集者が「これは珍奇」として、数ある中から“この一枚”を選んだのでしょう。
『諏訪史料叢書』から二通の「世相」を転載しました。両文ともに、翻訳ソフトのような「たどたどしさ」には参ります。これは、大祝の悪文が原因なのか・読み下しが下手なのか、原文を参照できないので確認もできません。もっとも、後世の人に「研究材料として読まれる」とは夢にも思わなかったはずですから、このような文句をつけられても“メモに文法など必要ない”と開き直られるのは必定でしょう。
文安3年(1446)12月9日では、大祝頼満の名でその年の世相が書かれています。(○○)は、編集者の添え書きです。
二日後の12月11日にも、ほぼ同じ内容が書かれています。
比較すると「下書きと清書」に見えますから、前文の余りの下手さに校正の手を入れたのが後文と思えます。それでも意味が通りません。
ここに出るキーワード「原山」を、武田信玄の花押がある『諏方上下社祭祀再興次第』から引用しました。それには「御射山の原、従上古(上古より)不耕作之処…」と書いてあります。「御射山(高野・原山)は神山で、古来から入山や耕作・狩猟は禁止」ですから、文中の「つくる・作らする」は否定の「不レ作(作らず・耕さず)」と考えました。「あら目」が意味不明ですが、文脈から「あたかも」の間違いとし、「大祝が言わんとすること」を推定しながら意味を通してみました。
現在の暦では6月なので、里の食草を採り尽くした人々が八ヶ岳山麓まで押し寄せたのでしょう。人間がいないはずの神の山だから、彼らが神のように見えたという“意味”です。
「原山」は地元に当たるので、(諏訪郡)原村の各家庭に配布された原村四百年史編纂委員会『郷土の歩み』を開きました。目論見通り、この一文を説明した項目がありました。
我流翻訳の出来具合を確認するつもりでしたが、状況説明だけで“大祝が感じたこと”は論外に置いています。(書きたい放題の私と違い)公の立場とすれば、この解説がベストの表現なのでしょう。
飢饉の記述に続いて、付け足しのように「此年正月御室焼失」と書いてあります。他の文献にも「御射山御狩神事の最中に穂屋がすべて焼けたので逃げ帰った」という記述が見られますから、同じ茅の御室では火災が度々あったと思われます。この緊急時に「ミシャグジ」をどう避難させたのか気になりますが、ここには“見出し”だけしか書いてありません。
大永5年(1525)の「当大明神御渡之事」です。大祝「宮増丸」とあるのは、元服前の「諏訪頼重」です。
享禄元年(1528)には
とあるので、大永6年から3年続けてカエルが捕れなかったことなります。こうなると「七不思議」も怪しくなってきますが、準備は万端で(想定済みで)前もって用意してある代用蛙を使ったのでしょう。
寛文2年(1662)の大祝頼寛の名がある「当大明神御渡之事」です。ここに、今で言う「宝殿遷座祭」の様子が書かれています。
「此年」に、「次の御柱」が書かれています。初めは「6年後の様子が(6年前の注進状に)書いてある」ことに疑問を持ったのですが、『当社神幸記』の「解題」を読み直して納得しました。『当社神幸記』は“まとめて集成”したものでした。いずれにしても「神輿の出し入れに余裕が無い寸法」など考えられないので、平成の世でも「不思議なり」と言うしかありません。
延宝8年(1680)11月1日に「西に星出る。その形虹の如し」とありますが、「虹のような星」が連想できる“物体”が思いつかないので紹介だけで済ませていました。平成24年になって「低緯度でも見られたオーロラ」をテレビで視聴し、これはオーロラのことだと直感しました。しかし、ネットの検索では、諏訪以外の文献には類似の現象が見つかりません。私としては「オーロラ」と断定したいのですが、拡大改変解釈になりそうなので、これで切り上げることにしました。