信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』に、菅江真澄が書いた『すわの海』が収録してあります。その中から〔天明4年3月6日〕の項を紹介します。原文を損ねない程度に(漢字・読み仮名・補注)を加えて読みやすくしてあるので、まずは一読してください。
菅江真澄が描いた画集の一枚(部分)を、岩崎美術社『菅江真澄民俗図絵』からお借りして添付しました。
『すわの海』の本文と絵の説明文「御簾の後ろは御笹のみ生い茂りて…」から、ここに描かれた社殿は現在の幣拝殿としました。しかし、余りにも簡素過ぎる社殿に描かれているのが不思議です。
改めて菅江真澄が参拝した天明4年(1784)を調べると、この頃は現在見る幣拝殿と片拝殿ではなく、乙事諏訪神社へ移築した社殿が建っていたことがわかりました。
これで、『民俗図絵』に描かれた社殿は「片拝殿」で、彼は、幣拝殿と片拝殿の間を通して「笹が生い茂る神居を見た」ことになります。幣拝殿をスケッチしなかったのは、御頭祭見物の途中なので余裕がなかったと推測されます。もしかしたら、幣拝殿のきらびやかさよりも、質素な片拝殿と神居の取り合わせを選択したのかもしれません。
菅江真澄は「神座は、出雲大社の方に向いている」と観察しています。それは正しいのですが、「戌亥(北西)」と書いているので、記憶違いか写本時に間違いがあったと思われます。気になる社殿の床ですが、私は「おひねりと賽銭」にしました。
後半に、「数珠を持つ神子(巫女)と持たない巫女」の二つのグループがあることが読み取れます。彼は、神仏習合の時代でも“怪しい”と見ましたから、数珠を持ちながら踊るのは極めて珍しかったのでしょう。一方の「彼方の庇」は、“かなた(遠く)”から、現在の「神楽殿」と思われます。今日は御頭祭の日ですから、それに関わる神事が各所で行われていたのでしょう。
松沢義章が書いた『顕幽本記』に、諏訪神社上社の巫女を書いた一文があります。
江戸時代の学者に「読み難い」とクレームを付けても始まりませんが、句読点を付けようにもその余地がまったくない文体に閉口します。[…]で省略して、早い話が「勾玉の腕輪」と解釈しました。これが“真実(実情)”だとすれば、諏訪神社の特殊性がさらに…。
「もがさ」は辞書で「痘瘡(ほうそう)」と知りましたが、「鹿のよけ」とは何でしょう。単純に解釈すると「鹿を除く」ですから、その神札の類でしょう。当時でも、鹿の食害が深刻であったことがわかります。
『伊藤富雄著作集 第二巻』に、「元禄頃の守札と推定せらるるもので、本社の祭神をもって、五穀を害する猪鹿の災を除祓する神とみているのである」と解説した「守符」の写真がありました。
参考として、横書きに“改造”したものを作りました。現在では電気柵と“駆除”ですが、当時はこの守札を境内で販売していたことがわかります。
『すわの海』の前段にある(中略)とした部分には、菅江真澄が諏訪神社へ向かった道中の見聞が書いてあります。
塩尻市の「阿礼神社」から岡谷市に出て、「尾尻の渡し」から舟で下浜−辨天島−花岡を見て、石舟戸からは「宮川」を溯って有賀に上陸し、真志野(まじの)−大熊(おぐま)−諏訪大社というコースです。この時代の「古図」があったので、参考として載せました。