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菅江真澄が見た天明4年の上社本宮 21.10.18

 信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』に、菅江真澄が書いた『すわの海』が収録してあります。その中から〔天明4年3月6日〕の項を紹介します。原文を損ねない程度に(漢字・読み仮名・補注)を加えて読みやすくしてあるので、まずは一読してください。

『すわの海』(上社本宮参拝の部分を抜粋)

三月六日 けふ(今日)は酉の日(御頭祭)なりければ、須輪(諏訪)の御かんわざ(神事)にまう(詣)でんとて出ぬ。 (中略)
 かくて鳥居に入ぬ。かけ樋の落くなるしたゝり(滴)に、手あらひ(洗い)口そゝぐ。
 正月朔日の日の御神事(蛙狩)は、此あたりの凍を斧鉄もてうちくだきて、蛙二ッとりていはくら(磐座)に備(供え)て小弓して射給ふ(たまう)となん。はた(また)、氷なきときは、きだはし(きざはし・階段)に蛙いづるといふ(言う)
 古きうたに「万代やみたらし川にすむ蛙まづ初春のにへ(贄)とこそなれ」
 ひろまへ(広前※神殿の前庭)に行みちを布橋といひて、いと長きわた殿(渡り殿)也。御宝蔵(宝殿)などきよらに(清らに)かゞ(輝)やきて、めもあや(目も彩)にいやをが(拝)みて過れば、をがみどころ(拝所)なり。
 よつ(四つ)の御はた(旗)をはじめ、くさぐさ(種々)入くらしたる物の机・かへしろ(垣代※幕)など、梶葉のかた(型)(押)したり。これは、武南方富命のおまし(御坐し)ます御簾(みす)のうちは、たゞ小笹のみ生ひしげりて、さらにみやしろ(御社)もなく、方は戌亥(※北西)をさだめ給へば、出雲にやむ(向)かはせ給ふならんか。いとたうとく(尊く)なみだしほ(萎)れぬ。やとぬさ(矢と幣)とりをさ(納)めて、かしこを拝ミめぐる。かなたのひさし(彼方の庇)に白衣きたる神子五人、鈴をうちふりながら左の手にずゞ(数珠)つまぐりたるもあや(怪)し。こ(ここ)は御炊殿・文庫。三亢宗源(意味不明)(お)祭りの具など御前にむかふ(向かう)。南のや(屋・家※高神子屋?)にみこ七人あまりすゞ(鈴)はふ(振)りて、ねんず(念珠・数珠)は見えざりけり。
 このそとも(外面)にいづ(出ず)れば、あるや(屋)に、もがさ(痘瘡)のまもり(※御守り)、鹿のよけ(除け)とよばふ(呼ばう※呼び続ける)。こや天真名井(天流水舎)と申奉りて、やねのなかばに筒さして雨したゝる通ひ(かよい)したり。又、井二ッある。ひとつ(五穀の種池)にはよね(米)を紙とひねりて投入てなりはひ(※農業)のよしあし(良し悪し)をうらふ(占う)。みさか(御坂)あがりてふげん(普賢)堂の板のひま(隙)より、 (後略)

「たゞ小笹のみ生ひしげりて」

菅江真澄が見た本宮 菅江真澄が描いた画集の一枚(部分)を、岩崎美術社『菅江真澄民俗図絵』からお借りして添付しました。
 『すわの海』の本文と絵の説明文「御簾の後ろは御笹のみ生い茂りて…」から、ここに描かれた社殿は現在の幣拝殿としました。しかし、余りにも簡素過ぎる社殿に描かれているのが不思議です。

乙事諏訪神社
乙事諏訪神社(旧諏訪神社本宮の幣拝殿)

 改めて菅江真澄が参拝した天明4年(1784)を調べると、この頃は現在見る幣拝殿と片拝殿ではなく、乙事諏訪神社へ移築した社殿が建っていたことがわかりました。
 これで、『民俗図絵』に描かれた社殿は「片拝殿」で、彼は、幣拝殿と片拝殿の間を通して「笹が生い茂る神居を見た」ことになります。幣拝殿をスケッチしなかったのは、御頭祭見物の途中なので余裕がなかったと推測されます。もしかしたら、幣拝殿のきらびやかさよりも、質素な片拝殿と神居の取り合わせを選択したのかもしれません。

菅江真澄「おひねりと賽銭」 菅江真澄は「神座は、出雲大社の方に向いている」と観察しています。それは正しいのですが、「戌亥(北西)」と書いているので、記憶違いか写本時に間違いがあったと思われます。気になる社殿の床ですが、私は「おひねりと賽銭」にしました。

数珠を持つ巫女

 後半に、「数珠を持つ神子(巫女)と持たない巫女」の二つのグループがあることが読み取れます。彼は、神仏習合の時代でも“怪しい”と見ましたから、数珠を持ちながら踊るのは極めて珍しかったのでしょう。一方の「彼方の庇」は、“かなた(遠く)”から、現在の「神楽殿」と思われます。今日は御頭祭の日ですから、それに関わる神事が各所で行われていたのでしょう。
 松沢義章が書いた『顕幽本記』に、諏訪神社上社の巫女を書いた一文があります。

僧等の数珠とて持てるものに似たるものを手に纒(まと)う古の手纒の玉……古の曲玉の一種にて…、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』から抜粋

 江戸時代の学者に「読み難い」とクレームを付けても始まりませんが、句読点を付けようにもその余地がまったくない文体に閉口します。[…]で省略して、早い話が「勾玉の腕輪」と解釈しました。これが“真実(実情)”だとすれば、諏訪神社の特殊性がさらに…。

「もがさのまもり」と「鹿のよけ」

 「もがさ」は辞書で「痘瘡(ほうそう)」と知りましたが、「鹿のよけ」とは何でしょう。単純に解釈すると「鹿を除く」ですから、その神札の類でしょう。当時でも、鹿の食害が深刻であったことがわかります。
 『伊藤富雄著作集 第二巻』に、「元禄頃の守札と推定せらるるもので、本社の祭神をもって、五穀を害する猪鹿の災を除祓する神とみているのである」と解説した「守符」の写真がありました。

鹿除けの守札 参考として、横書きに“改造”したものを作りました。現在では電気柵と“駆除”ですが、当時はこの守札を境内で販売していたことがわかります。

菅江真澄の諏訪大社参拝路

 『すわの海』の前段にある(中略)とした部分には、菅江真澄が諏訪神社へ向かった道中の見聞が書いてあります。

菅江真澄の参拝路
田中阿歌麿著『諏訪湖の研究』から「諏訪湖古図」

 塩尻市の「阿礼神社」から岡谷市に出て、「尾尻の渡し」から舟で下浜−辨天島−花岡を見て、石舟戸からは「宮川」を溯って有賀に上陸し、真志野(まじの)−大熊(おぐま)−諏訪大社というコースです。この時代の「古図」があったので、参考として載せました。