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硯石は幣拝殿の奥にあった 24.12.20改/30.7.27再改

■ ここでは、拝幣殿ではなく「幣拝殿」と表記しています。

 多くの書が「硯石を諏訪信仰の原点」とする中で、私の労作『硯石は移転した』は孤軍奮闘で終わっていました。ところが、改稿する中で何気なく読んだ遺跡発掘調査報告書に「(硯石は)中世以前から現在位置に所在していたかは、また別の問題であろう」とあるのを見つけました。「百万の味方を得た」とは大げさですが、遅まきながら同調者が現れたことになります。詳細は、文末の「やはり、硯石は…」を読んで頂くとして…。

 諏訪七石の一つ「硯石(すずりいし)」と言えば、諏訪大社を多少なりともかじった人なら、「ああ、あの石ね」と思い浮かべるのは容易(たやす)いと思います。

硯石
形状がよくわかる「冬姿の硯石」

 その不動の位置を占める硯石ですが、事もあろうに「硯石は移転した」とする“可動説”を仕立ててみました。

『上社古図』に描かれた硯石

硯石
神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図(部分)』

 まずは、図中の硯石に注目してください。現在の位置とは大きく異なっているのがわかるかと思います。これを「絵図だから」で片付けることもできますが、私は、「この時代では、幣拝殿の後方にあった」としても違和感を覚えません。

 というのは、『上社古図』の見方が変わったからです。かつては古絵図特有の描き方とあって参考・参照するだけでしたが、今では「この絵図の中には中世から現代までの諏訪神社が凝縮されている。地図とは比べようがないが、かなり正確ではないか」と評価するようになりました。

 そうなると、「硯石を現在ある場所に移動させた」のか「硯石が見えるように社殿を後退させた」ということになります。そんな駄論は思いつくこと自体が無駄の極致と言われそうですが、私は「何か、面白そう」と我が道を突き進むことにしました。

文献と絵図に見る硯石

 まずは、図書館で閲覧できる本から「硯石」の名が見える資料を洗い直し、所在場所に関係する文言を拾い出してみました。〔〕内は文献の記述です。

『諏方大明神画詞』(1356) 〔社の砌(みぎり)なる硯石にも…〕
同じ用例に「御室の砌を弓場とす」がある。“横・側”を同意語とすれば、あまり良い場所とは思えない。

(神長本)諏訪上社物忌令之事』(文明年間1469−1487)
御座石・御沓石・甲石には「正面・社内に在り」と書いているが、硯石には場所の記述がない。

『諏方かのこ』(1756) 〔神前薬師堂下
古絵図を参照すると、「薬師堂下」は拝幣殿のかなり後方となる。

『すわの海』(1784)
菅江真澄の本宮参拝記には、硯石についての記述がない。

守屋山の硯石
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』

『信濃国昔姿』(1819) 〔神宮寺村守屋道に有〕
『諏訪藩主手元絵図』の〔神宮寺村〕では、守屋山中に「硯石」が書かれている。

『信濃奇勝録』(1834) 〔守や山在〕
守屋山とあるので、『信濃国昔姿』と同じ硯石を指していると思われる。

『書入七石之事』『信濃国一宮諏訪大明神由来記』〔社内
この二書は時代・著者とも確認できないので、『諏訪史二巻』の記述をそのまま転載した。

 次は絵図ですが、『上社古図』と明治の銅版画を除いては、本宮の境内に硯石は描かれていません。

『諏訪社遊楽図屏風』と『御枕屏風』には“石類”は描かれていないので省きました。

『上社古図』(伝天正江戸時代初期)
神居の上(前掲の『上社古図』を参照)

『諏訪藩主手元絵図』(1733)
沓石・御座石はあるが、硯石は描かれていない。

『甲州道中分間延絵図』(1789−1801)
大きく描かれた沓石のみ。

『上宮 諏方大明神本社絵図』(1792)
詳細な境内図だが、沓石はあるが硯石は描かれていない。

『木曽路名所図会』(1805)
沓石のみ。

『信濃国一宮諏方上社絵図』(幕末)
沓石のみ。

『国幣中社諏訪上社図』(1885・明治17年)
沓石は巨石で描かれているが、硯石の場所には藪のみ。

『信濃宝鑑 六巻』〔諏訪神社上社之景〕(1902・明治34年)
明治も後期になって、ようやく硯石が“出現”しました(下図)。

諏訪神社上社之景から硯石
長野県立図書館蔵『諏訪神社上社之景』

 硯石が文献に記載されてないしていないから存在しなかったとは言い切れません。しかし、人によっては諏訪大社の参拝ラインに結びつける聖石です。絵図では、圧倒的な存在感があるこの石を描き落とすことはないでしょう。
 そこで浮上するのが、「硯石は、江戸時代後期に現在見える場所まで移動させた」という話です。

硯石は移転した…

薬師堂−硯石
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』〔神宮寺村(部分)〕

 改めて振り返ると、文献の中で唯一具体的な場所を挙げているのが、『諏方かのこ』の「神前・薬師堂下」です。
 この薬師堂を、前出の『上社古図』と左の『諏訪藩主手元絵図』に描かれたものと同一の場所とすれば、「硯」と名付けられたような扁平な石ですから、その下方にある塀や草木で遮られて参拝者の目に触れなかったことが考えられます。

 ところが、硯石は現在我々が見ている位置に堂々と鎮座していますから、ある時期に相対的な移動があったことになります。移動と言っても社殿全部を移築した可能性は極めて薄いので、やはり「硯石を移動させた」と考えるのが自然です。

『上社古図』で再現した、移転の想像図

上宮 諏方大明神繪圖 前出の「硯石は描かれていない」として挙げた〔上宮 諏方大明神繪圖〕を、『諏訪史 第二巻後編』から一部を転載しました。極めて詳細な内容になっているからです。
 ここには『上社古図』にある「御供所」がありません(下図参照)。その場所には「下十三所」の一社である「御炊殿(みかしきどの)」があるので、同系統の社殿とあって統合されたと考えることができます。その旧地が空きスペースになっていますから、(将来的に)硯石を移転するために空けたとも思ってしまいます。

上社古図の硯石
“ビフォー”

 『上社古図』を拡大したものです。中世の『諏方大明神画詞』では「社の砌(みぎり)なる硯石に…」と書いていますから、江戸時代初期でも中世の景観と同じであった可能性は十分にあります。
 この絵図を基に、『大改造!!劇的ビフォーアフター』ではありませんが、「硯石移転」のシミュレートをしてみました。 

上社古図の硯石
“アフター”

 “切り取った”硯石を〔上宮 諏方大明神繪圖〕に見られる空地と同位置に“貼り付けて”みると、現在と同じに、塀と御供所(旧御炊殿)の間に硯石がある景観になりました。
 ここで、大石の移転は可能かと指摘されそうですが、諏訪では御柱という重量物を曳く技術がありますから、心配には及びません、

やはり、硯石は移転した(とは言い切れませんが…) 30.7.27

 諏訪市教育委員会『市内遺跡発掘調査報告書(平成27年度)』に、『U 諏訪神社上社遺跡(第8次)』があります。〔8.総括〕から一部を転載しました。

 もう一点、硯石については近世以前の古い信仰である「磐座信仰」といわれ(宮地1937、伊藤1942、藤津2012)、四脚門と神楽殿を結ぶ軸線がその信仰方向と推定されている。
 この硯石の位置について絵画資料に見てみると、「諏訪大社上社古図」(江戸時代初期)には描かれているが、以降の資料には見られなくなる(第6図)。この点は古い信仰である硯石(磐座)への信仰が薄れていったことを表しているとも思われる。
 「上宮諏方大明神本社絵図」(寛政四年、1792年)はその当時あった建物位置や規模がほぼ正確に示されており、貴重な記録である。沓石や池を描いているが硯石は描かれておらず、その存在の薄れを感じさせる。
 以上のとおり、硯石については中世以前の信仰の拠り所ということで多くの研究がなされている。ただし、中世以前から現在位置に所在していたかは、また別の問題であろう。「諏訪大社上社古図」で、硯石は幣拝殿の後方に位置して現在地とは異なっている。絵図の正確性・資料批判を考慮するとしても明らかに違っており、硯石か社殿群の位置が現在と異なっていた可能性もあるのではないか。
 ここでは、硯石は過去において現在地と異なる場所にあった可能性もあるのではという程度に止めておくが、現在の硯石の下には安政年間に据えられた石製支柱があるという(宗教法人諏訪大社2015)。このことをとっても、人為的な手が加わっていることは確かである。

 これを読んで、私の「硯石移動説」に味方を得た思いがしました。まだ可能性の範囲に留まっていますが、何しろ教育委員会のお墨付きですから、改稿に力が入りました。


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