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硯石は境内の奥にあった?! 24.12.20 改

 諏訪七石の一つ「硯石(すずりいし)」と言えば、諏訪大社を多少なりともかじった人なら、「ああ、あの石ね」と思い浮かべるのは容易(たやす)いと思います。

硯石
形状がよくわかる「冬姿の硯石」

 その不動の位置を占める硯石ですが、事もあろうに「硯石は移転した」とする“可動”説を仕立ててみました。

『上社古図』に描かれた硯石

硯石
神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図(部分)』

 まずは、図中の硯石に注目してください。現在の位置とは大きく異なっているのがわかると思います。これを「絵図だから」で片付けることもできますが、私は、「この時代では、幣拝殿の後方にあった」としても違和感を感じません。

 というのは、『上社古図』の見方が変わったからです。かつては古絵図特有の描き方とあって参考・参照するだけでしたが、今では「この絵図の中には中世から現代までの諏訪神社が凝縮されている。地図とは比べようがないが、かなり正確ではないか」と評価するようになりました。

 そうなると、「硯石を現在見える場所まで移動させた」のか「硯石が見えるように社殿を後退させた」ということになります。そんな駄論は思いつくこと自体が無駄の極致と言われそうですが、私は「何か、面白そう」と我が道を突き進むことにしました。

文献と絵図に見る硯石

 まずは、図書館で閲覧できる本から「硯石」の名が見える資料を洗い直し、所在場所に関係する文言を拾い出してみました。〔〕内は文献の記述です。

『諏方大明神画詞』(1356) 〔社の砌(みぎり)なる硯石にも…〕
同じ用例に「御室の砌を弓場とす」がある。“端・側”を同意とすれば、あまり良い場所とは思えない。

(神長本)諏訪上社物忌令之事』(文明年間1469−1487)
御座石・御沓石・甲石には「正面・社内に在り」と書いているが、硯石には場所の記述がない。

『諏方かのこ』(1756) 〔神前薬師堂下
神前を「上壇」と解すれば、「薬師堂下」は幣拝殿のかなり後方となる。

『すわの海』(1784)
菅江真澄の本宮参拝記には、硯石についての記述がない。

守屋山の硯石
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』

『信濃国昔姿』(1819) 〔神宮寺村守屋道に有〕
『諏訪藩主手元絵図』の〔神宮寺村〕では、守屋山中に「硯石」が書かれている。

『信濃奇勝録』(1834) 〔守や山在〕
守屋山とあるので、『信濃国昔姿』と同じ硯石を指していると思われる。

『書入七石之事』『信濃国一宮諏訪大明神由来記』〔社内
この二書は時代・著者とも確認できないので、『諏訪史二巻』の記述をそのまま転載した。

次は絵図ですが、『上社古図』を除いては、本宮の境内には硯石は描かれていません。

『上社古図』(伝天正江戸時代初期)
神居の上(前掲の『上社古図』を参照)

『諏訪藩主手元絵図』(1733)
沓石・御座石はあるが、硯石は描かれていない。

『甲州道中分間延絵図』(1789−1801)
大きく描かれた沓石のみ。

『諏方大明神本社絵図』(1792)
詳細な境内図だが、沓石はあるが硯石は描かれていない。

『木曽路名所図会』(1805)
沓石のみ。

『信濃国一宮諏方上社絵図』(幕末)
沓石のみ。

『信州一之宮諏方大明神御社内之図』(幕末)
両石とも描かれていない。

『国幣中社諏訪上社図』(1885・明治17年)
沓石は巨石で描かれているが、硯石の場所には藪のみ。

『信濃宝鑑 六巻』〔諏訪神社上社之景〕(1902・明治34年)
明治も後期になって、ようやく硯石が“出現”しました(下図)。

諏訪神社上社之景から硯石
長野県立図書館蔵『諏訪神社上社之景』

 硯石は、文献では当たり前すぎて省略したことも考えられます。また、記載していないから存在しなかったとは言い切れません。しかし、人によっては諏訪大社の参拝ラインに結びつける聖石です。絵図では、圧倒的な存在感があるこの石を描き落とすことはないでしょう。
 そこで浮上するのが、「硯石は、明治30年代に現在見える場所まで移動させたのではないか」という話です。

硯石は移転した…

 改めて振り返ると、文献の中で唯一具体的な場所を挙げているのが、『諏方かのこ』の「神前・薬師堂下」です(下図参照)。この場所を『上社古図』の硯石と同一の位置とすれば、「硯」と名付けられたような扁平な石ですから、塀や草木で遮られて参拝者の目に触れなかったことが考えられます。また、それだけの石だったこともあり得ます。

上社古図の硯石 ところが、硯石は現在我々が見ている位置に堂々と鎮座していますから、ある時期に相対的な移動があったことになります。移動と言っても社殿全部を移築した可能性は極めて薄いので、やはり「硯石を移動させた」と考えるのが自然です。
 それは、明治期から始まった境内の拡幅整備する中で行われたと考えてみました。社殿と違い設計図も材料も必要ありませんから、労力を掛けるだけで済むからです。

上社古図
『上社古図』で再現した、移転の想像図

 江戸初期作と伝わる『上社古図』では、現在見る硯石の場所には「御炊殿(みかしきどの)」が“描いて”あります(上図参照)。ところが、その場所を寛政時代の『諏方大明神本社絵図』で見ると空きスペースになっており、御炊殿は隣の「御供所」にその名が見られます。統廃合があったと思われます。
 早速、『上社古図』上で、“切り取った”硯石をその空地に“ペースト”してみました。これで、現在と同じに塀と御供所(旧御炊殿)の間に硯石がある景観になりましたが…。

 『諏方大明神画詞』では、「社の砌(みぎり)なる硯石に…」と書いています。「社の砌」は(絵図のように)塀の横と理解できますから、その安定した場所から参拝者の目に触れるようにと斜面に移したことで、その重さから徐々にズリ落ちてきたのが想像できます。私は、脇片拝殿が取り払われて硯石が丸見えになった写真を見ただけですが、転落した硯石が社殿を壊さないように引き上げた工事と理解し、改めて、硯石が移転した可能性の高さを思いました。


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