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波除鳥居(本宮一之鳥居) 17.4.24

波除鳥居17.4.23 諏訪大社上社本宮では、最も平凡で一般的な参拝コースが「北参道」です。その道を往復に使うと、標題の「波除鳥居」を見ることはありません。
 多分トイレを借用した人のみがその方向にそれと知らずに見るのが、別名「波除鳥居」とある本宮一之鳥居です。傍らの石標に「皇紀二千六百(昭和15年)年記念」とありますから、60余歳では文化財とはいえません。

波除鳥居

 細野正夫・今井広亀著『中洲村史』から、〔波除鳥居〕を引用しました。

波除鳥居 一ノ御柱から四ノ御柱を結ぶ線あたり迄がかつての神域と思われる。明治以降二回にわたりだいぶ西に社域をのばしており、少し離れて波除鳥居がある。その波除けということが、かつて諏訪湖がこの辺まで延びていたことを示す。鳥居は形からして児柱や控貫がついて両部鳥居の類で、諏訪ではここだけの形(※他にもあります)であり、この神社の第一鳥居とされている。今ここから湖畔までは約五kmはある。

 山川出版社『文化財の見方』では、「両部(権現、四脚)鳥居」を「柱頭に台輪がつき、四脚の控柱(稚児柱)をもつ。笠木の上に屋根をのせるのが普通である」と解説しています。
 諏訪地方では少ないとあるその「両部」の様式よりも、「かつてはこの付近まで諏訪湖の波が立っていた」という話に興味を覚えます。しかし、現在は5キロ先が湖ですから、本宮が『湖畔の宿』ならぬ「湖畔の神社」とは想像もつきません。広島の厳島神社にも似た景観が展開していたのでしょうか。「さざ波の数だけちぎれて揺れている御柱が見られた」と、つい想像してしまいます。

延久の諏訪湖

 田中阿歌麿著『諏訪湖の研究』に、諏訪湖の古図が何枚か載っています。一番古いのは「延久以前図」ですが、「製図の年代は不詳」と但し書きがあります。調べると、「延久元年」は1069年でした。
延久元年の諏訪湖 現在と大きく異なることで目が行った左下の地形ですが、左下の「西沢・上嶋・今村」を諏訪の地名に当てはめることはできません。辰野町の今村と上島でしょうか。

 本題の古い諏訪湖ですが、上部の「下原」は「下の原」で、鳥居が現在の諏訪大社下社の秋宮。その下の長方形が下諏訪宿の前身ということになります。ところが、肝心の諏訪大社上社がある場所には、高遠の「片倉」から上社前宮がある「高辺」に繋がる道はありますが、鳥居は描いてありません。

 長らく、この絵図を基にして「当時の諏訪湖は…」と書くことはできないとしていました。ところが、距離や湖岸線の正確さはともかく、作者が「諏訪湖の東部は、現在の茅野市中まである」と捉えていたことはわかります。川との相対位置も正確なので、かなり信憑性があると見ていいかもしれません。そのため、この絵図からは、湖畔でなくともかなり近い位置に鳥居(神社)があったと考えても差し支えないでしょう(か)。

本宮一之鳥居

 別称として紹介した一之鳥居ですが、「一」を順番としてみると格式は最高位で、この鳥居をくぐる道が表参道と呼ばれる正式な参道になります。ところが、古文献には「大祝は二之鳥居から入って巡拝した」と書いています。大祝の居館である神殿(ごうどの)が前宮にあったことを考えると、当然のコースとなりますが…。
 細田貴助著『県宝守矢文書を読む』では、「神社造営の規定集である『造殿儀式』では、西(酉)の方角に鳥居を建てる」ことを紹介しています。また、「本宮でもその方角に一之鳥居があるのは理にかなっているが、“押しつけられた様式”を無視して、前宮からの古来の巡拝順を押し通したのだろう」とも書いています。

両部鳥居

 江戸時代の「諏訪大社の絵図」が何枚かあります。あくまで「絵」なので単純に比較はできませんが、いずれも普通の明神鳥居として描いています。かつては式年造営で6年毎に建て替えられましたから、地盤が軟弱としても凝った造りはしなかったと思われます。

明治の諏訪大社本宮一之鳥居
長野県立図書館蔵『信濃宝鑑六巻』(信州デジくら)

 そのため、現在の鳥居は、寄進(建立)した人の意向で見栄えのいい「両部鳥居」に仕様変更された可能性があります。
 左図は、渡辺市太郎編『信濃宝鑑 六巻』に載る〔諏訪神社上社之景〕の一部です。明治34年の書なので現在の鳥居の一代前となりますが、両部鳥居で描いています。まだ境内は拡張されていませんから、一之御柱の近くに建てられていることがわかります。

新造「波除鳥居」 21.11.6

諏訪大社上社本宮「波除鳥居」

 老巧化した鳥居が建て替えられました。撤去されたのは知っていましたが、いつ竣工式があったのかはわかりません。「いつのまにか」でした。旧道と鳥居の位置関係がわかるように、左を広く入れて撮ってみました。