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上社本宮の五鳥居と五官の鳥居 23.10.23

 参照文献は、すべて諏方教育会『復刻諏訪史料叢書』です。「諏訪大社」は、時代によって「諏訪神社」と表記しています。

 諏訪大社本宮には「一から五」の鳥居があります。通常の参拝では目に触れない鳥居があるので、『GoogleMap』にその場所を表示させてみました。ただし、「北参道の鳥居」は平成の鳥居なので除外しました。


「一之鳥居」は、明治期に現在位置へ移設

諏訪大社本宮「五鳥居の謎」

 鳥居が複数ある場合は、参道の入口から順に「一、二、…」と続くのが“一般的”だそうです。もちろん、断り書きを加えたように例外はあります。その場合は、本殿側から「一、二、…」と呼ぶそうです。

諏訪大社本宮四之鳥居
諏訪大社本宮「一之鳥居」

 ところが、上の地図を見てわかるように、いずれの“約束事”も諏訪大社には当てはまりません。「何か規則性があるだろうか」と見つめても、御柱の「一・二」と鳥居の「一・二」が共通の軸になっているだけとしか言い表せません。そのため、鳥居の配置一つにしても、「やはり諏訪大社は手強(てごわ)い」となります。

一之鳥居・二之鳥居

 『諏方大明神画詞』から、関係する部分のみを4項目抜き出して並べました。ここでは「中世の景観」を述べていますから、布橋もまだ存在せず、今見る景観とは大きく異なっている可能性があります。

正月一日、…西山きわには末社堂塔いらかを並へて見に渡る、一・二鳥居には騎馬行列次第連続、…

(3月)辰日、…大祝神官外、氏人水干本人数して、大宮(※本宮)の前へて北の鳥居(※一之鳥居)外、一妙(ひょう)山鼻より野火を放、…

(4月)十五日、…流鏑馬十番郡内例郷の役、…已(以)上一・二の鳥居の中間を馬場とす、…

(8月)十五日、…一・二の鳥居の間に於いて流鏑馬、…

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』
諏訪大社本宮四之鳥居
諏訪大社本宮「二之鳥居(南鳥居)」

 これを読むと、大先生方には「何を言うか」と直ちに却下される「(当時は)全くの平地である下壇」に立つと、首を振るだけで「一・二の鳥居」を見渡すことができる」ことが想像できます。しかし、ここに、初詣のような人混みを思い浮かべることができても、両鳥居の間にきらびやかに着飾った人馬が勢揃いし、人馬が疾走していたとは信じることはできません。

諏訪大社本宮四之鳥居
諏訪大社本宮「三之鳥居」

 「辰日の神事」では「北の鳥居」とありますが、これは「諏方明神は北向きに立つ」に基づく方角ですから「一之鳥居」を指します。


三之鳥居・四之鳥居

 次に、式年造営関係の文書を拾い出しました。何れも鳥居に関する部分の抜き書きです。

嘉禎四年(1238)『大宮御造営之目録』
次、御鳥居之事
 一之鳥居一根北方
 二之鳥居一之南方
 三之鳥居一之東方
 四之鳥居一之西方
 五之鳥居一之中門
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』
諏訪大社本宮四之鳥居
諏訪大社本宮「四之鳥居」

 二之鳥居から五之鳥居までの「一之」は、基準になる「一之鳥居(からの方角)」とわかります。ところが、「一根」が理解できません。「根は長いものの数え方」とあるので、「一」から「一之御柱」とも思えますが、誤字か誤植の可能性もあります。これを地図の鳥居に当てはめると、前述の「諏訪明神は北向きに立つ」から、「南・北」は許せる範囲としても「東・西方」がまったく合いません。
 『上諏方造営帳』では、方位の名で書いてあります。

天正五年(1577)『上諏方造営帳』
 上諏方北方大鳥居
 上諏方南方大鳥居
 前宮大鳥居
 上諏方東方大鳥居
 上諏方西方大鳥居
 上諏方中門之大鳥居
以上御鳥居六組

 ここでも西には鳥居がないのにも関わらず「西方大鳥居」が見られます。方位は一致しなくても、単に「東西南北」の「四方」に区分けしたという名称でしょうか。

古絵図に見る鳥居

 寛政四年(1792)に幕府に提出した『上宮 諏方大明神本社繪圖(控)』は詳細な境内図で、「二之鳥居より四之鳥居迄一丁半余・一之鳥居より五之鳥居まで二丁」などと書き込まれています。やはり公式絵図とあってか、「微妙となる方位」は書いていません。

諏訪大社本宮五之鳥居
諏訪大社本宮「五之鳥居」

 鳥居は5基とも「高四間・三間二尺」とあるので、この時代では鳥居の規模に序列がないことがわかります。
 高さは1.8×4で約7.2mですから、諏訪市博物館前の四之鳥居の7.5mとほぼ同じです。この時代に式年造営が行われたという記録を目にしていませんが、参考に挙げた四之鳥居は文化二年(1805)に現在の石造りになりました。

享保年代の鳥居配置

 享保18年(1733)の作成の『諏訪藩主手元絵図』から「神宮寺村」の一部です。諏訪史談会編の復刻版から転載しました。縮小したのでわかりづらいのですが、現在の「一之御柱と四之御柱を結ぶ線」が当時の社域の“北端”であることがわかります。

諏訪大社本宮の鳥居「諏訪藩主手元絵図」

数字の順番(序列)に意味はない

 一般的な解釈による参拝順路では、前述の「一→二と本宮を素通りし、三→前宮をくぐって前宮を参拝。引き返して四→(宮下道を通って)五から改めて本宮を参拝」となります。しかし、“超解釈”を得意とする私でも、ここまでこじつけるのは勇気がいります。
 これを「(鳥居より)御柱が先に成立した」と考えると、鳥居を直近の御柱の呼称に合わせたことも考えられます。しかし、残りの鳥居が説明できません。方位に矛盾があっても、それを現在まで押し通したように、「一から五までの順番」には何の意味もないのかもしれません。鳥居がすべて同一のサイズであることから、案外とそれが正解…。

方位には確たる意味はない −三之鳥居は西鳥居が正統か−

 諏訪には江戸時代の本宮の絵図が何枚か残っています。正確ではありませんが「当時の一之御柱の位置」を基準にして、「二之御柱」を通過する線を引いてみました。前述のようにこれを「南北線」に矯正すると、ほんの僅かですが「三之鳥居」が西域に含まれることがわかります。このことから、三之鳥居を「西方大鳥居」とすれば“四方”すべてが丸く(何とか)納まりますが、「三之鳥居─東・四之鳥居─西」七百年の歴史を逆にすることはできません。

 諏訪大社の本宮は、御柱で囲まれた広い面として考えるとスッキリするかもしれません。元々鳥居の概念がなかった独自の祭祀形態に、後(中央)から直線の神社参拝形式を導入した(押しつけられた)ことが「?」の“素”になった要因と考えられます。「御柱で囲った聖域」の背後は深山という立地ですから、前方の“守り”として、将棋の駒のように左右に鳥居を配置したのかもしれません。
 このように、中央の“神社規式”を取り入れても、諏訪独自の「型」にしてしまうのが諏訪神社上社(ミシャグジ)のすごさでしょうか。以上、雄大なスケールでまとめて(こじつけて)みました。

五鳥居は社家の五官に“対応”

 『神長満實書留』の「寛正五年(1464)」とある一巻に、以下のように書いてあります。「甲申」年ですから御柱の年です。ただし、「諏方之二男越前光有」が誰に当たるのかは私の知識ではわかりません。社家でないとすれば、物忌令による代役かもしれません。

(前略) 同(三月)廿四日副祝鳥居引候し、同廿六日諏方之二男越前光有鳥居引候し、廿八日権祝鳥居引候し、(中略) 同二日擬祝鳥居引候し、

 この後に「御柱引」が出てきますから、副祝・権祝・擬祝の社家が、御柱の曳行に先立って、鳥居の用材を所定の場所に曳き着けたことがわかります。言い替えると、五官それぞれが、担当(負担)する鳥居を式年造営した(建て替えた)ことになります。

 次は、時代は三百年以上さかのぼりますが、前出の『大宮御造営之目録』です。実は、省略した(目に入らなかった)文末に一之鳥居から順に五官名が書いてあったので、再登場となりました。なお、「所役」の部分は省略してあります。

次御鳥居之事
 一之鳥居一根北方 … 神長
 二之鳥居一之南方 … 禰宜
 三之鳥居一之東方 … 権祝
 四之鳥居一之西方 … 擬祝
 五之鳥居一之中門 … 副祝

 この順番は五官の“序列”なので、鳥居の数字もそれに倣うということでしょう。造営銭は決められた郷(所役)が拠出しますから、各五官が、担当する鳥居の造営責任者ということになります。

鳥居の分担が変わった !?

 武田信玄の『諏訪上宮祭祀再興次第』には、「一之鳥居の神長官と三之鳥居の擬祝が、造営銭が集まらなくて難渋している」という記述があります。前記の『目録』とは「権祝と擬祝」が入れ替わっていますから、この時代の序列と言うより、『叢書』の誤植でしょうか。
 これも、「本宮五鳥居の謎」で取り上げた天正五年(1577)の『上諏方造営帳』に、担当社家を加えたものです。

 上諏方北方大鳥居 …… 神長
 上諏方南方大鳥居 …… 禰宜太夫
 前宮大鳥居 …………… 権祝
 上諏方東方大鳥居 …… 擬祝
 上諏方西方大鳥居 …… 副祝
 上諏方中門之大鳥居 … 大工番匠興五右衛門尉
以上御鳥居六組

 これを読んで、「『目録』は誤植」としたのが間違いであることに気が付きました。それとともに、権祝が前宮の鳥居を担当したために、擬祝以下が繰り上がったことが理解できました。嘉禎からこの天正の間に、前宮の鳥居が新しく造営されるようになったのかもしれません。